普天間基地は、実は辺野古にできない?

世界的に株の乱高下が激しかった5月。

ギリシャのソブリン・リスクを発端として始まったわけだが、EUそして中国・インド・ロシア・ブラジルを中心として、ベースにあるのは、「金融恐慌の元を作ったのはアメリカだろ」という怒りがあると考えていた。

しかしながら未だ世界の基軸通貨・ドルの代わりを出来る通貨がない。代替のシステムとして、通貨バスケットがあるが。

歴史的にもデリバティブの清算がどこかで必ず必要となる。EUも中国もそしてロシアもソフトランディングするにしてもハードランディングするにしても、まだ賞味期限が終わっていないこのアメリカという国に対して、深慮遠謀で対している。

そんな国際政治の中で、日本は第2次世界大戦以降出来上がったアメリカへのみつぎ役を続け、今でも毎年21兆円のアメリカ国債を購入し続けている。

アメリカにとって日本の存在は金を出し続ける金の卵である。第二次世界大戦以降、この流れはまだ変わっていない。

1995年の日米構造協議は、クリントン時代のアメリカが日本を分析しつくして突きつけた要求項目がずらりと並んでおり、日本の共同体を破壊しつくすものであったし、技術立国としての日本を根底から覆すものであったはず。そしてこの構造協議でできあがった日本の社会構造の変化に対して、小泉・竹中政権で行われたアメリカからのアクションプランは年次改革要望書に応え続けるものであり、出し殻のように働いて金を貢ぎ続けるだけの機能が強化されてしまった。

それで日本国民が豊かになったのかと言えば、答えはノーである。日本の底力がなくなり、更に愚民化が進んだ。

ビデオニュースで孫崎享氏(元外務省国際情報局長)の普天間問題についてのコメントを見た。

普天間の問題でも、日本は米軍基地の経費全体の75%を負担している。ドイツは30%であり、他の国で75%を出している国など見当たらないらしい。そして、各国において米軍基地の問題は、住民反対で同じように直面しているのが現実である。
鳩山首相は辺野古と言いつつも、結果的に辺野古の基地建設は無理だろうとコメントしており、興味深く、考えさせられる。
またこの辺野古騒動で、マスコミの報道の仕方があまりにもひどすぎたとコメントしている。
辺野古問題は、まだ終わった訳ではなく、これからが本番であり、実は辺野古に基地はできないだろうという見方は慧眼に値する。

http://www.videonews.com/on-demand/0471480/001449.php

様々なことが明らかになるに従って、日本には感情の鬱積が相当溜まっているために爆発するが(だからこそ民主党政権ができあがった訳だが)、マスコミはその鬱積を利用して空気を作り上げてくる。

だからこそ、世界全体で、何がどうなっているのかよく認識する必要がある。

後記)
マスコミの事前リーク問題ついては以下。岡田外務大臣のコメント。誰が事前リークの情報を流して妨害したのかを考える上で、2番目の佐藤優氏のBLOGと併せて読むとよく分かる。
http://news.livedoor.com/article/detail/4790362/

佐藤優の眼光紙背より。今回の普天間をめぐる民主党と官僚との闘いについて。
http://news.livedoor.com/article/detail/4799091/

酢からス、そして日本

今日の夜は、手羽先、ごぼう、ねぎの煮込み料理を作る。

手羽先は先を切り、軽く炒め、だし汁をベースに、ごぼうとねぎを入れ、クツクツと煮込むこと1時間弱。
みりんと醤油、黒砂糖で味付けし、一番最後に酢で仕上げた。
そして、春の山菜、こごみを料理。
今日の煮込みは、かなり良い出来。

酢の使い方で、料理は良くなる。
広がるというか、統一感が出て絶妙な味のバランスを引き出すことができる。

人を好きになるの、「スキ」という声もスとキの組み合わせで、あるエネルギーが向かうことを示しているし、人がスッと出てくる、というときの「ス」も静かながらエネルギーを秘めて登場してくる感じが出ている。

言霊の世界は、芸術において、能がよく表現していると思う。
能の世界は、その根源を縄文の世界にまで辿ることができるので、言霊は、縄文のエネルギーに満ちた生命の内奥から発せられる響きから来た世界なのだろう。
縄文人は、つま先でスッスッと歩いた。現代でもスは生きている。

世阿弥の「花伝書」は、この奥儀を説いた日本最高の芸術論としてあり、世阿弥、そして父の観阿弥にとっても、言霊の世界は、当たり前の世界としてあったのだろう。
花は、開く前の蕾の状態に、秘めたる美しさを観て、その感応は、潜象の世界で通じている。

この休日、井筒俊彦氏の「意識と本質」「存在論から意識論へ」を読んでいたのだが、明治以降の捉え方を、後記で書いておられた。

「特に、明治以来、一途に欧化の道を驀進してきた我々日本人の場合、その意識—少なくとも意識表層—は、もはや後には引けないほど西洋化しているのだ。ほとんどそれと自覚することなしに、我々は西洋的思考で物事を考える習慣を身につけてしまっている。つまり、ごく普通の状態において、現代の日本人のものの考え方は、著しく欧米脈化しているし、まして哲学ともなれば、既に受けた西洋的学問の薫陶が、それを別に意図しなくとも、我々の知性の働きを根本的に色付ける。
だが、他方、日本語によって存在を秩序付け、日本語特有の意味文節の網目を通して物事を考え、物事を感受し、日本語的意味形象の構成する世界を「現実」としてそこに生きる我々が、心の底まで完全に欧化されてしまうことはあり得ない。ということは、要するに、我々現代の日本人の実存そのものの中に、意識の表層と深層とを二つの軸として、西洋と東洋とが微妙な形で混交し融合しているということだ。
~中略~
東と西との哲学的かかわりというこの問題については、私自身、かつては比較哲学の可能性を探ろうとしたこともあった。だが実は、ことさらに東と西とを比較しなくとも、現代に生きる日本人が、東洋哲学的主題を取り上げて、それを現代的意識の地平において考究しさえすれば、もうそれだけで既に東西思想の出会いが実存的体験の場で生起し、東西的視点の交差、つまりは一種の東西比較哲学がひとりでに成立してしまうのだ。」

東洋哲学研究の世界的大家である井筒俊彦氏は、着物姿で写っている写真が多く、東西的視点の交差を自身の存在で現出させている稀有な日本人であり、自らを語らなかったが、実は日本のことを深く深く案じていたように私には思える。東洋のみならず、西洋哲学にも探求が深く、縦横無尽だが極めて正確に東西を語り、共時的構造化として深層を掘り起こしてみせるその存在に、「ス」のちからを感じた。

国連生物多様性条約事務局の報告書から

国連生物多様性条約事務局(モントリオール)の報告書が、9日明らかになった。
1970年から2006年にかけ脊椎動物3割減少。熱帯では6割減少。生息地が耕作地や牧草地に転換するため破壊されたことが大きいらしい。そのなかでも両性類は42%の種で個体数が減少し、最も絶滅の危機に直面しているほか、植物の約4分の1は絶滅危惧種と考えられている。
報告書は、生物多様性は過去1万年にわたり人類の生活を支えてきたが、今後もその恩恵を受けられるかどうかは、今後10年から20年の取り組みにかかっていると指摘。
ごはんを食べに入った定食屋さんで読んだ毎日新聞より。

地球上の人口は、現在、68億6千万人。予測では、2040年くらいで90億くらいで打ち止まるだろうという予測を読んだ覚えがある。
中国とインドの人口増加に歯止めがかかるという説。しかし、そんな簡単な話ではないだろう。

人口増加は1800年くらいから産業革命とともに急激に始まり、平均寿命も当時は30歳強だったが、グングン伸びている。
http://www.unfpa.or.jp/p_graph/pgraph.html
水の問題も深刻。水が世界的に足りなくなる。
http://www.asahi.com/eco/forum2010/water/j/TKY201004080349.html

石油は、サウジアラビアが今後10年で枯渇し、イラン、イラクは30-40年で枯渇。(採掘方法によって石油量の埋蔵量に違いは出るが、大体それくらい。)石化資源からの転換が全世界的に求められ、鉱物資源はもちろん枯渇。
地震は多発。火山の噴火もある。東京に関東大震災クラスが起こると、もう財政的ストックが無いので国家破綻する。

生態系は、昨年、ミツバチが激減して様々な影響を与えたけれども(受粉にも影響)、生物の多様性が激減することにともなって、様々な影響が出る。

人類が地球上で生きていけるかどうか、ギリギリのところまでいく。。。
新聞記事を読みながら、シミュレーションし始める自分がいた。

と言っても、地震については、いつも緊張する訳にはいかないので、さっさとやることをやってしまおう。

今やっているのは、地震のときに、物が凶器となって飛んでくるので、壁への固定。
数年前に地震保険はかけたのだけれど、火災保険とセットになっているため、高め。でもこれは仕方がない。

知り合いのリフォーム会社に聞いたところ、耐震リフォームは20万から可能らしい。
柱抜け防止、筋交いの補強を入れると強度がまったく違ってくる。これはどこまでやるか。
非常食は半年で交換。昨年の夏から交換していなかった^^;
事務所は、1980年代の建築基準法以前の雑居ビルに入っているので、同じフロアに建築構造力学を扱う会社があり話を聞いた。このビルはエレベーターの近くが頑丈なので、そこに逃げてくれ、とのこと。
やるだけやって元気に生きよう!

100年後の子供たちから感謝されることを、小さなことでもいいからやってみよう。

検察審査会での小沢氏 起訴相当について

小沢氏の好き嫌い、そして民主党の支援不支援は別にして、この起訴相当が導き出された経緯について、どんな資料が渡されて、起訴相当の判断がされたのか、また検察審査会への審査を依頼した匿名団体が、何者であるかも明かされないまま、事態は進んでいる。

郷原信郎氏(元検事・弁護士)が「小沢一郎氏に検察審査会が起訴相当の判断」を動画で話されているので、ビデオニュースで無料閲覧できる。

http://www.videonews.com/charged/news-commentary/0001_3/001423.php

昨年夏の衆院選で最高裁の裁判官が、自己紹介PRで紹介した裁判例は、いかに自分は無罪判決を行ったかを紹介しているが、現実に行っていることはまったく逆で、98%の有罪判決が下っており、世界の中でも異常に高い比率だ。
推定無罪が成立しないのは、何故か?

後記)こちらもチェックしておこう。
きっこのブログより 5/19
小沢幹事長の秘書の逮捕は自民党の指示との証言
18日に生放送されたCS局の「ニュースの深層」で、ゲストの元参院議員の平野貞夫氏が、数々の爆弾発言をして波紋を広げている。~後略~

http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2010/05/post-0ca2.html

料理、そして男と女

今の時代、関係がソフィスティケートされているので、言葉が大切。
男同士の場合でも、年に開きがあると、なぜこの話をしているかという元を話さないと相手を否定しているように受け取られてしまうことも多い。基本は相手に良くなってほしいという前提。企業の人事担当は、褒めるから、理由を話して叱るに変わってきたたらしい。

特に女性とのコミュニケーションでは、男と女で持っている感受性のアンテナが異なるため、言葉の取りようも変わってきて
これがひいてはお互いが理解できずに困っているケースが多い。

例えば、パソコンを買う場合、男性はこの機能が付いていないと、などロジカルな面から入ることが多いが、女性は、パッと見て、私、このパソコン好き!という全体把握的な捉え方をする。

「話を聞かない男、地図の読めない女」という面白い本があったが、女性はマルチタスクで男性はシングルタスクを紹介していた。
男はある意味単細胞のシングルタスクなので、何かに集中しているときに話しかけられても駄目なのである。
女性はマルチタスクなので同時にいろんなことができる。
言葉の使い方も女性は横のコミュニティーを作っていく言葉の使い方に対して、男は違う。

男は定年退職したら寂しい生活が待っているケースが多いけれど、女は横のつながりをずっとキープできる。男同士は何かないと電話できないのに対して、女同士は気軽に電話できる、などなど。

私の姉は、大阪で料理研究家をしていたのだが、定年退職したオジサン達に料理を教えていた。
これが大好評で、オジサン達は子供達や友達に対して、こんな料理を作ったから持って行ってあげるね、というように関係を作りやすくなり、
とても感謝をされていた。

手の凝った料理は、効率と生産性から真逆にあり、食べてくれる人が喜んでくれたとき、本当に嬉しい。

心から大切にしている異性がいると、この性差の違いを分かろうと努力する。
そして、意識はかくも自己中心的かと思えるくらい自己中なので、自分を相対化できず、意識で形成されたアイデンティティを保持しようとする結果、自分を枠にはめてしまい様々な限界を自分で作り出しているのが実情で、大切にしている人がいると、ひょっとして俺がおかしいのかな、と振り返り、新しい発見を喜びをもって迎えることができる。

さて、料理について、恩師が教えてくれたことのひとつを紹介すると、包丁は男が研ぐこと、だった。
この意味は深い。
分かる人にだけ分かる。

日本の神様はよく働く

日本の神様はよく働く。
それぞれの国にある神話は、お国柄をよく表す。
日本は、イザナギ、イザナミの両神が、二人で国を創るところから始まる夫婦和合の国。
ヨーロッパに目を向けると、ちなみにゼウスは働かない。
このことは、楽して金儲けであったり、若いときにお金を稼いで、後は悠々自適という生活観にもつながるだろう。

日本は根っこが違うぞ、という気持ちだ。

ちなみにピーター・ドラッカーは、90歳になっても自分で電話に出ていた、そんな例もあるが、ドラッカーは夫婦仲がとても良かった。この人には楽して金儲けという発想がどこにも無い。

ヨー ロッパから始まる文明は、男尊女卑を形式としてフォローするレディファーストを前提にしているが、これは、一神教のもつ父権制からきている。

小室直樹氏のビデオ対談「日本教講義」が面白い。日本の神さまが働くという話は、このビデオを観ての話。
ちょっとお年をめされた感じはあるが、故山本七平氏とともに探求された日本教・空気の研究は今でも日本を捉える理論として機能しつづけている。

NYダウ998ドル下げについて思うこと

NYダウ急落は、昨夜、瞬間風速998ドルの下げを見た。

100万を100億と間違って誤発注したことに端を発するらしい。
ギリシャ問題に終結の姿勢を見せなかった欧州中央銀行の総裁コメントが、ユーロ売りを加速した。NYダウはユーロ売りドル買いにリンクしている。
逃避通貨としての円(円高に)、そして金(ゴールド)に余剰資金がなだれ込み、ドル円は急落して88円、金は1オンス1200ドルを抜いて上がった。(金はvsドル、リスクヘッジの両面を持つ)

世界的な余剰資金が、相互にリンクしたマーケットの中で、お金の欲望と恐怖を作り出している。
従って、全世界的な雪がなだれ現象が起こる。
恐怖によって今まで持っていた株を売ってしまい、売りが売りを呼ぶというのが行きなだれ現象。

バブル期のように、買いは買いを呼ぶという場合もあるが、損切りが損切りを呼んで、急落する落ち方は、買いによって上げてきた期間の何十分の一くらいの短期間で達成してしまう。

1929年の大恐慌においても、あるノーベル経済学の受賞学者が、恐慌の直前に、この繁栄は永遠に続く、とコメントしていた。永遠に続くと思われた経済的繁栄の直後、大恐慌を始まった。

考えるべくは、このリンケージ。
90年代だったか、台湾で地震が起こったときに、全世界のパソコン・パーツの殆どを製造していたため、世界的に大問題が思った。先日、新宿の竹下通りで、10代の若者が、芸能人がやってくる、という噂で大混雑の中、押し合いへし合いで怪我人まで出たことがあったが、これも同じこと。

この複雑で緻密にリンクした高度資本主義のネットワーク社会は、様々なリスクを抱えている。

一人一人が、まずはこのリスクを認識すること。

そして欲望にも恐怖にも左右されないこと、操作されている意識から脱却して、自分の頭で考えることが何よりも必要になっている。

お金を持っていても、食料が買えないと生きていけないし資源も必要で、一国は一国だけで生きていけない。また、一流企業でも代表が判断を間違うと倒産してしまう。世のお母さんお父さんたちが、今までの価値観が崩壊しているにも関わらず、そして今までの価値観では生きていけないにも関わらず、子供たちに本当に大切なことを伝えていないのが残念。

地球的に問題噴出の状況を、それでも後々の子孫は生きていかなければならない。本当に大切なこと。

でも、こういうことって今の学校では教えてくれないのは確か、そして学校の代わりに会社が人を育てていた余裕が今は無くなってしまっているのも確か。。。

後記)
ダウの暴落には、誤操作説が出ている。100万単位を間違えて100億でオーダーしたという説。
事実を曲げて、操作して言いつくろった説に聞こえるのは私だけだろうか。
シカゴ取引所が売ったという説があり、そちらの方が信憑性がある。
では、何故売ったのか。売り時であると判断したから。何故売り時だと判断したのか。暴落を読んでいたから、となる。つまりは前哨戦である。
誰かの発言がきっかけとなって相場が暴落するのは、後付けの理由である。それが理由だとすると、いくつでも理由があるのだ。
では、ドルが安泰なのか?と言われれば、全然そんなことはない。ユーロはドルのカウンター通貨。世界の余剰資金がNYダウを押し上げていたがアメリカの実態経済は良くない。水面下でシーソーゲームの駆け引きになっているだけだと推測している。
昨年の12月につけたドル安は、危機的になった通貨=ドルに、逆に資金流入するという結果を招いたはず。リーマンのときもそうだったのだが、新興国・資源国からの資金引き上げ=ドルの還流がすさまじかったはず。同じ現象が起こっただけ。
だから弱くなった機軸通貨は逆に強くなるという逆説を示している。
では、円はどうなるのか?今年の夏くらいまでは円安で上がるだろうが、来年の秋に向けて、74円を付けに来る可能性がある。この74円は、人為的なかたちでしか円安にならない。日銀の政策次第。HONDAあたりは85円にまで対応できる戦略をすでに組んでいるが、多くの企業にとって、この数字は酷でありすぎる。
ここで日本は非常に厳しい局面を迎える。
いずれにしても秋以降、覚悟しなければならず、リスクヘッジの嵐=逃避通貨の円へなだれ込む円高に陥るとき(まるでシルクロードの終着地点である日本になだれこむような)日本が負のキャスティングボードから、もう一度世界を新たに再生させる地球再生のエンジンを駆動する正のキャスティングボードへ転換するために、本当は何をしなければならないか、本質はそこにあると思う。

日本について 5月4日

自分の不勉強を反省し、ゴールデンウィークで本のまとめ読み。

・「天皇の原理」小室直樹著
日本の天皇制がどういう変遷をたどったか知るために読む。

・「異形の王権」網野善彦著
網野史学の中で南北朝期の後醍醐天皇がどう語られているかを知るために読む。

・「日米開戦の真実」佐藤優著
大戦直後、右翼の代表的知性だった大川周明のNHK講演。

・「日本教の社会科学」小室直樹&山本七平対談
小室直樹氏の盟友であった山本七平氏を始めて読む。

・「ナショナリズムの克服」姜尚中&森巣博対談

・「愛国の作法」姜尚中著
国体ナショナリズムの批判を読むため。

・「挑発する知」宮台真司&姜尚中対談
参考になったが、2004年で状況が少し古いかも。

・「日本政治思想史研究」丸山真男著
日本の政治思想を語る上での定番。

まるでヤミ鍋のようにドカドカ入れて、最後は自分の中でどう消化するかというところ。

今日の段階でいうと、ナショナリズム関連の本は、出来るだけたくさん読んで現在どんな議論が展開されているのか知っておいた方が良いというのが感想。

天皇の歴史的変遷については、学校でも深くは学ばなかったので、簡単に紹介。

平安時代の天皇は、ご飯も食べ(当たり前か)、恋愛もし、歌を詠む普通の人。
しかし鎌倉時代に入り、源頼朝死後、奥さんだった北条政子が配下の武士に仕切り直しをする。それは朝廷に対しては絶対的畏敬の念をもって接していたわけだが、朝廷を選ぶか、幕府を選ぶか、この二者択一を迫るというもの。
皆のもの、頼朝に世話になっただろう、朝廷をとるが幕府をとるか、この場ではっきりせい!と。

これで天皇の位置づけが180度転換する。承久の乱。

それまで天皇の言葉は絶対で、予定調和説。どんなことでも天皇がおっしゃるわけだからそれは神の言葉、という位置づけが、どんどん変わっていく。
天皇はどんな良いことをするのか、という善政主義に変わる。
その後北条氏は、ワイロやいろんな乱れで凋落し、朝廷は後醍醐天皇の時代。
朝廷と幕府の対立が北朝と南朝の分裂を生み、天皇が二人存在するという状況。天皇が天皇であるために必要となる三種の神器は南朝にある。当時の南朝の参謀、北畠親房が、偽りの三種の神器を北朝に渡したため。
平安期に天皇のお供ではべっていた人たち、(網野史学では、後世の被差別人、非人、遊女のルーツがそういう人たちであった)そいういう人たちや、漂白の民をたばね、そして楠木正成や新田義貞などの名武将が中心となり、総力戦をかけ、南朝が権力を奪取する。
しかし、その後、味方だった足利高氏に裏切られて、転覆。
このあたりは「異形の王権」に詳しい。

その後、三種の神器を北朝に渡し、統一を見る。北朝と南朝が交代で朝廷を担当するという約束は守られず、南朝はそのまま衰退。従って、三種の神器が存在する今の天皇家は、北朝の系統。

さて、次は、江戸時代に入る。北朝と軟調はどちらか正統?この論争が再燃。
以下、「天皇の原理」より引用。
この大論争は、徳川時代を通じて激しく闘わされ、余波は明治から昭和初年にまでも及ぶ。この大論争の争点の一つは、南北朝のいずれか正統であるか。もう一つの争点は、建武中興は何故、失敗したか。徳川時代を通じて、大論争が繰り広げられていった。そして、この大論争の過程を通じて、承久の乱で死んだ天皇イデオロギーは復活してゆくのであった。(この論争は崎門学(きもんがく)を中心になされ、創始者の山崎闇斎の弟子が浅見絧斎。)
天皇は神である。天皇が正しいことをするのではない。天皇がすることだから正しい。これが、天皇イデオロギーの教議。この教義が復活した。復活することによって、天皇は「真の神」となった。(天皇の原理 P297-298)

この流れで明治維新まで一直線。ご存知、尊王攘夷。

さて、海外では1800年代も、列強の帝国主義時代。東インド会社でしこたま儲けたイギリスは、インドでアヘンを作らせて、中国の絹・綿織物の支払いに充てている。麻薬づけになって怒った中国は戦うが、軍事力で敗北。中国の植民地化が一気に進む。
日本は、日清・日露戦争でウカレ気分。
前提は人口の膨張と近代化、帝国主義。

満州事変から大戦へ。大戦直後、NHKラジオで放送された大川周明の講演が、「日米開戦の真実」佐藤優著に収められている。何が語られているかは、読んでいただくとして、大川周明は、当時日本の最高知性とされ、出版されたその講演は大ベストセラー。大戦はすでに始まっているわけだが、植民地化されたインド中国を救済するというのが大義名分。国体という言葉はここでも使われる。大川周明は、東京裁判で、東条英機の頭を後ろの席からスリッパで叩いたり、パジャマ姿で登場したことは有名。佐藤氏は、裁判をコメディー化することで、その有効性を白紙にしようとしたのではないだろうかと分析。

さて、ここで見ておいたほうがいいのは大戦中の矛盾。
熱烈なる国体賛同兵士は、戦争が近代戦となっているため、本当に必要な兵の資質ではなかったこと、実際の戦争において目的と手段が入れ替わり、よくある精神がなっとらん!=体罰なんて当たり前。統帥権が独り歩きし、学徒動員、一億総玉砕、はては人間魚雷と命が犠牲になっていったことは常識。

佐藤氏は「日米開戦の真実」で、大川周明の講演を文章として紹介することで、考える機会を提供しようとしているのだろう。

戦後、国体ナショナリズムをどう捉えなおすかが日本の知識人の使命。でないと同じことがまた起こる。また同時に、大戦後、タイやマレーシアの首相から、大戦当初イギリスを破ってくれた自立の自信を与えてくれたと感謝するメッセージも発信されている。(「日本国民に告ぐ」小室直樹 P264)

さて、次に姜 尚中氏「愛国の作法」を読む。

以下ポイントとなっているところを引用。
近代国家としての国民国家を考えるとき、国民を「エトノス」という感性的な存在とみなすのか、それとも「デーモス」という「作為」(社会契約)によって成立する意志的結合体とみなすのか、そのどちらかによって国家のあり方、つまり「国格」も変わってこざるを得ません。
両者は図式的にいうと、「エトノス」-「(感性的)自然」-「血」-「民族共同体」と、
「デーモス」-「(意志的)作為」-「契約」-「国民共同体の二つの系列に整理できます。
これ納得。
丸山真男の「軍国日本」のファシズム的な「ヒステリー症状」は、フロムの言葉に意訳すると、攻撃的なサディズム的性格よりもむしろ、マゾヒズム的な側面に起因しているということです。
丸山真男の捉えかたをフロムの言葉を借りて紹介している。
以下引用
(マゾヒズム的努力の-著者の注)もう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、一層力強い全体の部分となり、それに没入し、参加しようとする試みである。その力は個人でも、制度でも、神でも、国家でも、両親でも、あるいは肉体的調整でも、何でも良い。揺るぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることによって、人はその力と栄光にあやかろうとする。人は自己自身を屈服させ、それのもつすべての力やほこりを投げ捨て、個人としての統一性を失い、自由をうちすてる。しかしかれは、かれが没入して力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りとを獲得する。またかれは疑惑という責苦に抵抗する安全性も獲得する。マゾヒズム的人間は、外部的権威だろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。・・・かれの生活の意味やかれの自我の同一性は、自身が屈服したより大きな全体によって決定されるのである。(フロム「自由からの逃走」)

「愛国の作法」は、いたるところでエーリッヒ・フロムが引用されており、大ベストセラー「愛について」からの引用も多い。愛国を、ジャック・デリダの脱構築を用いて展開していることが分かる。つまり、愛国を一度歴史的な意味で精査し、そして解体し、再構築するという方法。

姜氏の著作は「ナショナリズムの克服」から読み始めたため、始めかなり違和感があった。外から見ている感じがしていた。対談者も在豪だし。
スパスパと切ってみせるやり方はシャープで問題を可視化しているのだけれど、どこか違和感を感じていた。この違和感が、自分の中にある「共同体」からきていることもわかる。どんどん姜氏を対象化していく自分がいた。そして、自分のことも考えていた。

姜氏のホームページを見た。「愛国の作法」を2年連載したらしいのだが、そこで政治を学問として扱う限界を感じていると語っていた。そして文学と政治をやってみたいと。トルストイに興味をもっているという。この話を読んで、わだかまりが幾分かは溶けた。

トルストイであることも分かる。人とのつながりを前提とする公、そして国家を越える公は以前から語られているが、文学を通してそのつながりに踏み込み可能性を探ろうとしているのだろう。そして、情(こころ)で反応している自分は、きわめて日本人的。

今、個人に対しては性善説を、国家に対しては性悪説を。なんだかこれがぴったりきている。国が国相手に性善説で対応しようものなら、大変だ。
国民一人一人が国家を性善説で捉えると、間違う。それは今の民主党に対しても同じ。だから国には監視が必要だということも肝に銘じたほうがいいだろう。
市民による国家監視(シビリアンコントロール)は、日本ではまだ黎明期。

そもそも組織は、ある一定の人数を越えると共同幻想が必要になり(学校は先生が面倒みれる最大数が40人位とされ、企業はトップと平社員の関係が70人位で最大。相互扶助を前提として社会的絆を持ちうる最大数としてダンバー数があるが、それは150人としている。)、その最大値を超えたときに個人と組織の関係はガラリと変わる。ここをどこまでいっても性善説で捉えようとするときに、不幸が起こる。

政治から離れて文化で捉えると、命から生まれ命を育む文化は、どこの国の文化とも戦争を起こさない。日本にはあらゆる国の文化が流入して何でもありの国だ。それだけ懐が深く受け入れることができる平和の深層がある。

個性っていったい何なんだろう?

個性っていったい何なんだろう?
あの人ってこういう人だね、とかお酒がはいった席で相手のペルソナ(仮面)をイメージで勝手に作り上げているようなものなのだろう。もし10代や20代の人で、そんなことやってたら即刻やめた方がいい。ゆとり教育で個性の尊重と言われても、そんなの嘘で、20歳前後の人と話して分かるのだが、驚くほどその弊害が出ている。
本来、人の命はそんな枠を持っていない。

私とはどんな人なんだろう?という答えのない問いに、親や周りが勝手に作り上げたイメージ像を自分に当てはめているだけで、なんと命を粗末にしていることか。そんなふうに人から枠をはめられて、元気が出るはずがない。教育で言えば、文系と理系の区別すら本来は無いと思う。

個性を得意という意味で使ったとしても、面白さが分かって時間をかければ何でも得意になる。誰が先生であったかだけ。
人間が効率の中で粗末に粗末に扱われている社会だから、よく意味を考えてみることが必要だと思う。

私自身、自分の個性って言われても、人見知りをすることもあれば、社交的になることもあるし、ニートばりに本ばかり読んでるときもある。自分でもさっぱり分からない。

日本電産の社長が良いことを言っていた。
例えば新入社員が入社してくるときに、いわゆる一流といわれる大学を卒業して、本当はソニーに行きたかったのだけれども落ちてしまったので仕方がないから日本電産に行く、そういう人と、いわゆる三流といわれる大学を卒業しても、行きたい会社に行けて本当によかった、うれしい!そして家族も喜んで赤飯まで炊いてくれる人とでは、入社後、雲泥の開きが生まれる。

人間の能力は、その差が最大でも5倍なのだが、やる気の違いで能力は何10倍にも及ぶ。会社に行くのが楽しいと、そりゃあ結果も出る。そして若い人たちは本能的に育ててくれる人を求めている。

日本の国力の衰退が著しい。国の借金は危険水域だ。
日出るところの国が、日沈むところの国になってしまっている。
ボタンの掛け違いは、掛け直すしかなく、対症療法では治らない。

私の宝物

昔の田舎には、濃い自然の空気があった。
川の水はきれいで、とんぼが飛んでいた。

川にもぐったら
浅瀬を泳ぐ魚が
きらきら差し込む光の中で
ビュッと横切った。

隣の友達がくれたトマトは太陽をいっぱい浴びて甘かった。
牛の目はでっかくて優しかった。

井戸は夏でも冷たくて、別世界。
スイカを冷やしていた。

そして夜になると蚊帳(かや)の中で、
田舎の空気に溶け込んで
ぐっすり眠った。

私の宝物。母の実家。

晴天の日、徒然に

雨ばかり続いた天気が終わり、気持ちのいい晴天だった。
近所の善福寺川公園で寝そべり日向ぼっこ。

帰ってから「古事記」を読み直す。
なんて豊かなんだろう。

黄泉の国に行ってしまったお母さんに会いたさがつのって、泣いてばかりいるスサノオが、ヤマタノオロチを退治して英雄となる話や、天と地の両方に光を照らしていたサルタヒコがアメノウズメと夫婦になる話には男性性と女性性のカップリングを見るし、釣り針をめぐって意地悪兄からあいじめられていた弟が、助けを得て、その逆を行うことで、豊かになる話をはじめ、尽きない面白さが詰まっている。

タブーが無いと思う。うんこやおしっこも出てくるし、そこから神も生まれる。無いのは原初のタブーである近親相姦くらいじゃないだろうか。近いのは確か下巻に夫婦を取るか兄妹の関係を取るかで迫られる姫の話が出てくるくらいだろうか。あらゆる出来事が生じては顛末を得て、物語が進んでいく。

夜は、本を整理して、昔購入した星野道夫さんの写真集VOL.4に見入っていた。
海面に、遊泳するザトウクジラの尾っぽが現れ、夕焼けの光が玉となって空間に拡がっている。
雄大なアラスカの自然を感じながら、今、地球にとって人間は自分勝手で邪魔な存在になっているんじゃないだろうか、と感じ出した。

右翼と左翼

佐藤優さんの「日本国家の真髄」より。

「人間の理性に基づいて、理想的な社会国家を構築できるという発想自体が、1789年のフランス革命のときに、議長席から見た左側に座っていた人々、すなわち左翼の思想なのである。左翼は、人間は誰も等しく理性を持っていると考える。したがって、完全情報が与えられているならば、人間は理性に基づいて、共通の結論に至ると考える。
~中略~
これに対して議長席から見て右側に座っていた人々、すなわち右翼は、人間の理性には限界があると考える。ここで重要なのは、理性を否定しているのではないことだ。理性の限界を強調しているのである。
ただし武力は、理性の限界の外においてこそ、人間の真価が現れると考える。」

この本は、戦前の「国体」について書かれた本である。

近代合理主義が、この左翼の理性万能主義に基づいており、ポストモダンの時代にあっても、この理性でもってとらえきろうとするが、これを許さないくらいの爆発的な情報の増大があり、結果、トータリティを失い、存在が矮小化しているのが現代とも言える。

そこを小泉純一郎の新自由主義路線が後押し、お金、能力を、切り離された個人の存在に価値として、連結させた。

これに反して右翼は、古(いにしえ)に戻り、家族、地域、国、高天原と直結する天皇、そして宇宙を一つの家と見ている。従って、自分たちと異なる多次元も容認できる。

第二世界大戦への参戦を時期ではないとして、必死になって止めようとした右翼の人たちがおり、「国体の本義」は、その暴走を止めようとした人たちの中心メンバーによって書かれた。

そしてこの「国体の本義」は、戦後、GHQによって焚書された。

日本に個人の個という考え方はあったのだろうかと思う。個から理性をもって始まり、存在を問い、個を超越して世界を捉えようとする流れに対して、日本は180度違うベクトルを持っていたような気がする、というか、自分の周りや世界と同時にひとつとして感じている。日本の会社もそこが最大の強みだったはず。だから個の存在を問うことに本来は意味を持っていないような気がする。虫の鳴き声も欧米人は右脳で聴き、日本人は左脳で聴いている(角田忠信博士の証明)。昔、サルトルの「嘔吐」を読んで、どうしてマロニエの根っこで嘔吐するのかが分からなかったし、説明はできても、根っこでは分からない。デカルトを読んでも、言っていることは分かるが、根っこでは分からない。当時、周りに哲学書を読む知り合いが多かったのだけれど、すでにある歴史的知識を使っているか、トートロジーに陥っているように思えた。

今考えてみると、アルファベットを使ったディスクールは、何かを説明しきろうとする傾向を本質的に持っているような気がする。対象化して説明するツールとして言葉ができているから。

しかしながら日本語は非常に多義性を持っているし、どうみても対象化しきろうという言語ではないように思う。

昔、アメリカの女性と付き合っていたときに、彼女が英語でしゃべるときと、日本語でしゃべるときで、性格というか状態が変わるということに気が付いた。彼女の論文エッセーを読むと、なんて英語は分析に向いた言語なんだろうと思った。そして、彼女が日本語を話すとき、日本の女性よりも日本人らしくなるということに気が付いた。これは使っている言葉からきている。

万葉集で有名な山上憶良が日本は、「言霊の幸はふ国」と詠み、豊かな自然の中に自分たちの情緒を住まわせている。

桜を見てふっと体が開くときや、海の波間に洗われる心、人間の営みや感情に、自然の一つ一つが表情を持って呼応してくる文化の中に私たちは育まれている。
情緒の機微が自然と合って呼吸している。

今は、漢字と平仮名、カタカナを使って書いてはいるけれど、こんな珍しい国は無い。

元はどうなっているのだろう?

表彰文字としての漢字が、日本に入ってくるや当時の知識人が飛びつき、日本の古(いにしえ)が否定されようとした背景に、源氏物語などの平安文学が防戦し、流れをつなげている。小林秀雄さんの「本居宣長」の上巻に、このあたりの事情が詳しい。

さて、小泉政権時代の郵政民営化を、古事記に照らし合わせてみると、(「大和ごころ入門」で村上正邦さんと佐藤さんの対談集から)、イザナミがイザナキに先に声をかけてしまったので、(つまり女から男に声をかけてしまったので)、水蛭子というフニャフニャの実体がよく分からない生き物が生まれ、淡島といういつ沈んでもおかしくない陸地ができてしまった。後と先が逆になってしまった事例の顛末を古事記から預言している。

今の状況は、理性で捉えきろうするところでは解決できないところに来ているとしか思えない。

地震について

モダンからポストモダンへと移行した結果、情報と知識が相対化されて、その検証に時間がかかり、組み合わせも増大し、世の中がこれだけ複雑化してくると、処理できる情報の量にも限界が出てくる。
かといって自分の専門領域については適応することが必要になるわけだが、あらゆる分野がリンケージしているこの状況で、さて、何が大切かというと、良質なネットワークが何物にも代え難い。
あの人に聞けば分かるという、人のネットワークである。このネットワークを生かすには、今自分が持っている課題や問題をオープンにしておく必要がある。
専門は専門として重要なのだが、専門だけでは解決できない分野やフェーズが必要となる。
最近、こういう人と友達になりたいなあ、というところで地球の天変地異に詳しい人が欲しい。
今年に入っての地震は、ハイチ、チリ、中国と四半期で三連発である。アイスランドで噴火も起こってヨーロッパの空港は3分の2が閉鎖された。
昨年よりも頻度が高く、年を経るに従って、これは急カーブで増えていってるではないだろうか?
チリの地震では、地軸が8センチズレた。ほとんど影響はないとしても、100万分の1.26秒の時間が短くなったらしい。
しかしこのうなぎ登りの頻度で起こる地震が、年に50回に及んだとすると。。。。

今まで築いてきた文明がバベルの塔になってしまう。

地球の地殻変動期は阪神大震災のあたりを境に始まったという説がある。地球の内部を循環するマントル対流が、硬い表面の亀裂に作用して地震が発生するわけだが、日本もマリアナ海溝の延長線上に東海地域があるため、正式な発表として30年以内に関東大震災並みの地震が来る確率は80%とされている。(中央防災会議の研究結果)

足元で大変なことが起こっているにもかかわらず、戦争やテロやアホなことをやっていたのが今の人間だという歴史観を、行く末の人間が持っても不思議はない。

この星の上で、人間は生きていけるのだろうか?そして存続できるならば、どんなことが本当に必要なのだろうか?
きれいごとではなく、まともに直面する事態がやってくるように思えて仕方がない。
地球規模でライフラインのネットワークが必要になるだろう。

ゴールドマンサックスの訴追から徒然に

4/16アメリカSECが、ゴールドマンサックスのCDO(債務担保証券)取り扱いについて、証券詐欺罪で訴追を発表した。
その結果、NYダウは150ドルの下げ、石油、金など先物も急落した。
訴追内容は、ポールナンアンドカンパニーという大手ヘッジファンドが、1500万ドルの手数料を支払って、このCDOを作ってもらう一方で、その価格下落を見込んだCDS契約を結んでいた、という内容だ。
2008年9月に始まった本格的なデリバティブの崩壊は、その膿出しは全く終わってはおらず、国際ジャブジャブ発行によるにインフレ誘導が世界的になされており、いたるところで組み込まれたCDS、CDOが存在している。
考えてもみよう。リーマンの時、CDSが対象だったが、売り買いの両サイドが調整をして8%の損失で済んでいて、あれだけの激震だった。しかし、CDOを中心として、どこにどう入り込んでいるのか、把握することが不可能であること、その膿出しの第一弾が行われたと見るべきだろう。

今後、このデリバティブの中核商品であったCDS、CDOに関連した事件が多発するだろう。CDSについて、ウォーレン・バフェットが金融界で時限核爆弾が発明されてしまった、とコメントした。CDOについても同じである。
世界はこのデリバティブバブルの清算をつけなければならない。
猶予は3年。2012年末までだろう。
一気に問題が出れば大恐慌。輸出依存比率が47%の中国経済も一時的に墜落する。(日本は17%)
徐々に膿出しが可能ならばいいのだが。
いずれにしても通貨の信用度合いが低下し、実物経済とその派生商品に移行する流れは止められないだろう。

石油や金は、アンチドル(vsドル)の動きを取るため、この通貨そのものに対する信用不安が高まれば高まるほど上がる。
金が良い例で、昨年12月初旬に$1200ドル当たりを付けたままは下がらない。危機に伴って金は5000年の歴史を背景にあがってくる。

本来、アメリカの立場でいくと、ドル安の方が、アメリカの輸出産業に対して都合が良い、そして何よりも石油をドルで取引するという世界の前提からすると(2007年春イランは日本に石油の円決済を求めたが)、ドル安の方が都合がよかった。
2010年4月現在その反対にドルはあがっており、ドルインデックスで80当たりにあると思う。これは、ユーロのギリシャ問題が起因している。

円は安い。1ドル63円から73円の円高説があるが、こんなレートでは日本経済が崩壊する。1995年の79円の際はストックがまだあったが今は無い。今年春の円安誘導は、日銀の為替オペレーションが成功している。84円を付けた急激な円高の後、88円の分岐点で、見事円安誘導に成功した。

いずれにしても、この3年が勝負なのである。

一定平和に見える世の中の深いレイヤーで起こっている事態。
日本人は本質的に明るいので、どうしてもこのような事情に疎くなる。(欧米は基本が陰気=だから明るいものを好むという岡潔説)

日本が世界の中で持っている使命のようなものがあると思う。
それは資金援助だけではないだろう。

日本は本当凄いんだ、という思い込みは、1980年代の幻想であり、1990年以降資本主義のシステムを取り込んだロシア、中国、インドが出現することで、資本主義人口は10億人から40億人まで膨らんだ。この40億人のグローバルマーケットの中で付加価値の高い日本製品は、アジアマーケットの価格水準の中では、高すぎるのが現状である。欧米が購買力のあるうちは良かったが、世界全体の中でポジションニングが見えないのが本当のところだ。

しかしながら、それでも日本は、ここは凄いと言いたい訳である。
先日書いたように、岡潔さんの言葉で、政治、経済よりも前に文化がある。言い換えれば、企業にも文化がある。

面白い話を紹介しよう。
駐日アメリカ大使は、ライシャワーから始まり、マンスフィールド、モンデール、ベイカーなどアメリカの大御所が大使として赴任してきた。
本来アメリカの意見を代行するのが大使の役割なのだが、赴任期間が長期に渡るにつれ、次第次第に日本のファンとなり、発言に日本よりのバイアスがかかってくる。
モンデールは、東京の根津にある「たい焼き」のファンになりお忍びで買いに行っていたが、アメリカ本国に戻った途端、選挙でも落ち、アメリカの基準に合わなくなってしまう(ちょっと残念)。そんな理由で、先代のシーファーから現在のルース大使は、大統領選での資金貢献で選ばれている。

日本の持つ文化力。

私たちは、もっともっと、この力に自信を持ったほうがいい。