個性っていったい何なんだろう?

個性っていったい何なんだろう?
あの人ってこういう人だね、とかお酒がはいった席で相手のペルソナ(仮面)をイメージで勝手に作り上げているようなものなのだろう。もし10代や20代の人で、そんなことやってたら即刻やめた方がいい。ゆとり教育で個性の尊重と言われても、そんなの嘘で、20歳前後の人と話して分かるのだが、驚くほどその弊害が出ている。
本来、人の命はそんな枠を持っていない。

私とはどんな人なんだろう?という答えのない問いに、親や周りが勝手に作り上げたイメージ像を自分に当てはめているだけで、なんと命を粗末にしていることか。そんなふうに人から枠をはめられて、元気が出るはずがない。教育で言えば、文系と理系の区別すら本来は無いと思う。

個性を得意という意味で使ったとしても、面白さが分かって時間をかければ何でも得意になる。誰が先生であったかだけ。
人間が効率の中で粗末に粗末に扱われている社会だから、よく意味を考えてみることが必要だと思う。

私自身、自分の個性って言われても、人見知りをすることもあれば、社交的になることもあるし、ニートばりに本ばかり読んでるときもある。自分でもさっぱり分からない。

日本電産の社長が良いことを言っていた。
例えば新入社員が入社してくるときに、いわゆる一流といわれる大学を卒業して、本当はソニーに行きたかったのだけれども落ちてしまったので仕方がないから日本電産に行く、そういう人と、いわゆる三流といわれる大学を卒業しても、行きたい会社に行けて本当によかった、うれしい!そして家族も喜んで赤飯まで炊いてくれる人とでは、入社後、雲泥の開きが生まれる。

人間の能力は、その差が最大でも5倍なのだが、やる気の違いで能力は何10倍にも及ぶ。会社に行くのが楽しいと、そりゃあ結果も出る。そして若い人たちは本能的に育ててくれる人を求めている。

日本の国力の衰退が著しい。国の借金は危険水域だ。
日出るところの国が、日沈むところの国になってしまっている。
ボタンの掛け違いは、掛け直すしかなく、対症療法では治らない。

私の宝物

昔の田舎には、濃い自然の空気があった。
川の水はきれいで、とんぼが飛んでいた。

川にもぐったら
浅瀬を泳ぐ魚が
きらきら差し込む光の中で
ビュッと横切った。

隣の友達がくれたトマトは太陽をいっぱい浴びて甘かった。
牛の目はでっかくて優しかった。

井戸は夏でも冷たくて、別世界。
スイカを冷やしていた。

そして夜になると蚊帳(かや)の中で、
田舎の空気に溶け込んで
ぐっすり眠った。

私の宝物。母の実家。

晴天の日、徒然に

雨ばかり続いた天気が終わり、気持ちのいい晴天だった。
近所の善福寺川公園で寝そべり日向ぼっこ。

帰ってから「古事記」を読み直す。
なんて豊かなんだろう。

黄泉の国に行ってしまったお母さんに会いたさがつのって、泣いてばかりいるスサノオが、ヤマタノオロチを退治して英雄となる話や、天と地の両方に光を照らしていたサルタヒコがアメノウズメと夫婦になる話には男性性と女性性のカップリングを見るし、釣り針をめぐって意地悪兄からあいじめられていた弟が、助けを得て、その逆を行うことで、豊かになる話をはじめ、尽きない面白さが詰まっている。

タブーが無いと思う。うんこやおしっこも出てくるし、そこから神も生まれる。無いのは原初のタブーである近親相姦くらいじゃないだろうか。近いのは確か下巻に夫婦を取るか兄妹の関係を取るかで迫られる姫の話が出てくるくらいだろうか。あらゆる出来事が生じては顛末を得て、物語が進んでいく。

夜は、本を整理して、昔購入した星野道夫さんの写真集VOL.4に見入っていた。
海面に、遊泳するザトウクジラの尾っぽが現れ、夕焼けの光が玉となって空間に拡がっている。
雄大なアラスカの自然を感じながら、今、地球にとって人間は自分勝手で邪魔な存在になっているんじゃないだろうか、と感じ出した。

右翼と左翼

佐藤優さんの「日本国家の真髄」より。

「人間の理性に基づいて、理想的な社会国家を構築できるという発想自体が、1789年のフランス革命のときに、議長席から見た左側に座っていた人々、すなわち左翼の思想なのである。左翼は、人間は誰も等しく理性を持っていると考える。したがって、完全情報が与えられているならば、人間は理性に基づいて、共通の結論に至ると考える。
~中略~
これに対して議長席から見て右側に座っていた人々、すなわち右翼は、人間の理性には限界があると考える。ここで重要なのは、理性を否定しているのではないことだ。理性の限界を強調しているのである。
ただし武力は、理性の限界の外においてこそ、人間の真価が現れると考える。」

この本は、戦前の「国体」について書かれた本である。

近代合理主義が、この左翼の理性万能主義に基づいており、ポストモダンの時代にあっても、この理性でもってとらえきろうとするが、これを許さないくらいの爆発的な情報の増大があり、結果、トータリティを失い、存在が矮小化しているのが現代とも言える。

そこを小泉純一郎の新自由主義路線が後押し、お金、能力を、切り離された個人の存在に価値として、連結させた。

これに反して右翼は、古(いにしえ)に戻り、家族、地域、国、高天原と直結する天皇、そして宇宙を一つの家と見ている。従って、自分たちと異なる多次元も容認できる。

第二世界大戦への参戦を時期ではないとして、必死になって止めようとした右翼の人たちがおり、「国体の本義」は、その暴走を止めようとした人たちの中心メンバーによって書かれた。

そしてこの「国体の本義」は、戦後、GHQによって焚書された。

日本に個人の個という考え方はあったのだろうかと思う。個から理性をもって始まり、存在を問い、個を超越して世界を捉えようとする流れに対して、日本は180度違うベクトルを持っていたような気がする、というか、自分の周りや世界と同時にひとつとして感じている。日本の会社もそこが最大の強みだったはず。だから個の存在を問うことに本来は意味を持っていないような気がする。虫の鳴き声も欧米人は右脳で聴き、日本人は左脳で聴いている(角田忠信博士の証明)。昔、サルトルの「嘔吐」を読んで、どうしてマロニエの根っこで嘔吐するのかが分からなかったし、説明はできても、根っこでは分からない。デカルトを読んでも、言っていることは分かるが、根っこでは分からない。当時、周りに哲学書を読む知り合いが多かったのだけれど、すでにある歴史的知識を使っているか、トートロジーに陥っているように思えた。

今考えてみると、アルファベットを使ったディスクールは、何かを説明しきろうとする傾向を本質的に持っているような気がする。対象化して説明するツールとして言葉ができているから。

しかしながら日本語は非常に多義性を持っているし、どうみても対象化しきろうという言語ではないように思う。

昔、アメリカの女性と付き合っていたときに、彼女が英語でしゃべるときと、日本語でしゃべるときで、性格というか状態が変わるということに気が付いた。彼女の論文エッセーを読むと、なんて英語は分析に向いた言語なんだろうと思った。そして、彼女が日本語を話すとき、日本の女性よりも日本人らしくなるということに気が付いた。これは使っている言葉からきている。

万葉集で有名な山上憶良が日本は、「言霊の幸はふ国」と詠み、豊かな自然の中に自分たちの情緒を住まわせている。

桜を見てふっと体が開くときや、海の波間に洗われる心、人間の営みや感情に、自然の一つ一つが表情を持って呼応してくる文化の中に私たちは育まれている。
情緒の機微が自然と合って呼吸している。

今は、漢字と平仮名、カタカナを使って書いてはいるけれど、こんな珍しい国は無い。

元はどうなっているのだろう?

表彰文字としての漢字が、日本に入ってくるや当時の知識人が飛びつき、日本の古(いにしえ)が否定されようとした背景に、源氏物語などの平安文学が防戦し、流れをつなげている。小林秀雄さんの「本居宣長」の上巻に、このあたりの事情が詳しい。

さて、小泉政権時代の郵政民営化を、古事記に照らし合わせてみると、(「大和ごころ入門」で村上正邦さんと佐藤さんの対談集から)、イザナミがイザナキに先に声をかけてしまったので、(つまり女から男に声をかけてしまったので)、水蛭子というフニャフニャの実体がよく分からない生き物が生まれ、淡島といういつ沈んでもおかしくない陸地ができてしまった。後と先が逆になってしまった事例の顛末を古事記から預言している。

今の状況は、理性で捉えきろうするところでは解決できないところに来ているとしか思えない。

地震について

モダンからポストモダンへと移行した結果、情報と知識が相対化されて、その検証に時間がかかり、組み合わせも増大し、世の中がこれだけ複雑化してくると、処理できる情報の量にも限界が出てくる。
かといって自分の専門領域については適応することが必要になるわけだが、あらゆる分野がリンケージしているこの状況で、さて、何が大切かというと、良質なネットワークが何物にも代え難い。
あの人に聞けば分かるという、人のネットワークである。このネットワークを生かすには、今自分が持っている課題や問題をオープンにしておく必要がある。
専門は専門として重要なのだが、専門だけでは解決できない分野やフェーズが必要となる。
最近、こういう人と友達になりたいなあ、というところで地球の天変地異に詳しい人が欲しい。
今年に入っての地震は、ハイチ、チリ、中国と四半期で三連発である。アイスランドで噴火も起こってヨーロッパの空港は3分の2が閉鎖された。
昨年よりも頻度が高く、年を経るに従って、これは急カーブで増えていってるではないだろうか?
チリの地震では、地軸が8センチズレた。ほとんど影響はないとしても、100万分の1.26秒の時間が短くなったらしい。
しかしこのうなぎ登りの頻度で起こる地震が、年に50回に及んだとすると。。。。

今まで築いてきた文明がバベルの塔になってしまう。

地球の地殻変動期は阪神大震災のあたりを境に始まったという説がある。地球の内部を循環するマントル対流が、硬い表面の亀裂に作用して地震が発生するわけだが、日本もマリアナ海溝の延長線上に東海地域があるため、正式な発表として30年以内に関東大震災並みの地震が来る確率は80%とされている。(中央防災会議の研究結果)

足元で大変なことが起こっているにもかかわらず、戦争やテロやアホなことをやっていたのが今の人間だという歴史観を、行く末の人間が持っても不思議はない。

この星の上で、人間は生きていけるのだろうか?そして存続できるならば、どんなことが本当に必要なのだろうか?
きれいごとではなく、まともに直面する事態がやってくるように思えて仕方がない。
地球規模でライフラインのネットワークが必要になるだろう。

ゴールドマンサックスの訴追から徒然に

4/16アメリカSECが、ゴールドマンサックスのCDO(債務担保証券)取り扱いについて、証券詐欺罪で訴追を発表した。
その結果、NYダウは150ドルの下げ、石油、金など先物も急落した。
訴追内容は、ポールナンアンドカンパニーという大手ヘッジファンドが、1500万ドルの手数料を支払って、このCDOを作ってもらう一方で、その価格下落を見込んだCDS契約を結んでいた、という内容だ。
2008年9月に始まった本格的なデリバティブの崩壊は、その膿出しは全く終わってはおらず、国際ジャブジャブ発行によるにインフレ誘導が世界的になされており、いたるところで組み込まれたCDS、CDOが存在している。
考えてもみよう。リーマンの時、CDSが対象だったが、売り買いの両サイドが調整をして8%の損失で済んでいて、あれだけの激震だった。しかし、CDOを中心として、どこにどう入り込んでいるのか、把握することが不可能であること、その膿出しの第一弾が行われたと見るべきだろう。

今後、このデリバティブの中核商品であったCDS、CDOに関連した事件が多発するだろう。CDSについて、ウォーレン・バフェットが金融界で時限核爆弾が発明されてしまった、とコメントした。CDOについても同じである。
世界はこのデリバティブバブルの清算をつけなければならない。
猶予は3年。2012年末までだろう。
一気に問題が出れば大恐慌。輸出依存比率が47%の中国経済も一時的に墜落する。(日本は17%)
徐々に膿出しが可能ならばいいのだが。
いずれにしても通貨の信用度合いが低下し、実物経済とその派生商品に移行する流れは止められないだろう。

石油や金は、アンチドル(vsドル)の動きを取るため、この通貨そのものに対する信用不安が高まれば高まるほど上がる。
金が良い例で、昨年12月初旬に$1200ドル当たりを付けたままは下がらない。危機に伴って金は5000年の歴史を背景にあがってくる。

本来、アメリカの立場でいくと、ドル安の方が、アメリカの輸出産業に対して都合が良い、そして何よりも石油をドルで取引するという世界の前提からすると(2007年春イランは日本に石油の円決済を求めたが)、ドル安の方が都合がよかった。
2010年4月現在その反対にドルはあがっており、ドルインデックスで80当たりにあると思う。これは、ユーロのギリシャ問題が起因している。

円は安い。1ドル63円から73円の円高説があるが、こんなレートでは日本経済が崩壊する。1995年の79円の際はストックがまだあったが今は無い。今年春の円安誘導は、日銀の為替オペレーションが成功している。84円を付けた急激な円高の後、88円の分岐点で、見事円安誘導に成功した。

いずれにしても、この3年が勝負なのである。

一定平和に見える世の中の深いレイヤーで起こっている事態。
日本人は本質的に明るいので、どうしてもこのような事情に疎くなる。(欧米は基本が陰気=だから明るいものを好むという岡潔説)

日本が世界の中で持っている使命のようなものがあると思う。
それは資金援助だけではないだろう。

日本は本当凄いんだ、という思い込みは、1980年代の幻想であり、1990年以降資本主義のシステムを取り込んだロシア、中国、インドが出現することで、資本主義人口は10億人から40億人まで膨らんだ。この40億人のグローバルマーケットの中で付加価値の高い日本製品は、アジアマーケットの価格水準の中では、高すぎるのが現状である。欧米が購買力のあるうちは良かったが、世界全体の中でポジションニングが見えないのが本当のところだ。

しかしながら、それでも日本は、ここは凄いと言いたい訳である。
先日書いたように、岡潔さんの言葉で、政治、経済よりも前に文化がある。言い換えれば、企業にも文化がある。

面白い話を紹介しよう。
駐日アメリカ大使は、ライシャワーから始まり、マンスフィールド、モンデール、ベイカーなどアメリカの大御所が大使として赴任してきた。
本来アメリカの意見を代行するのが大使の役割なのだが、赴任期間が長期に渡るにつれ、次第次第に日本のファンとなり、発言に日本よりのバイアスがかかってくる。
モンデールは、東京の根津にある「たい焼き」のファンになりお忍びで買いに行っていたが、アメリカ本国に戻った途端、選挙でも落ち、アメリカの基準に合わなくなってしまう(ちょっと残念)。そんな理由で、先代のシーファーから現在のルース大使は、大統領選での資金貢献で選ばれている。

日本の持つ文化力。

私たちは、もっともっと、この力に自信を持ったほうがいい。

場について

小林秀雄全集の中に、小林さんたお付き合いした人たちが短いエッセーを寄せた巻がある。
これがとても面白い。
今日出海さんによれば、小林さんは集中力がたくましく、その結果、物を失くしたりすることが頻繁だったらしい。ヨーロッパへ今さんが一緒に旅行にいったとき、カメラを失くしてしまい、後で写っている写真を見て、自分の脇にカメラが置いてあり、そこで忘れたことが判明した、とか、逸話が楽しませてくれる。
周りには、青山二郎、河上徹太郎、中原中也、などなど、深い付き合いをしながら議論を重ねお互いに磨きをかけていった、そんな集まりと場があった。

人間、一人では成長できないのである。

国が変わって、1920年代のハンガリー、ブタペストから。ユダヤ人のノーベル賞受賞者が数多く出てくる。どんな謎があるのだろうと調べた。マイケル・ポランニーのお母さんがサロンを主催しており、そこにいろんな人たちが集っていた。ポランニー兄弟は、ともにノーベル賞の受賞者。また当時のブタペストには、カフェ・ニューヨークという場があり、そこに集っていたユダヤ人の学者からノーベル賞の受賞者が数多く出てくる。

そしてまた国が変わって、パリ。ダダイズムが生まれてくる場も凝縮された場だった。後のシュールレアリズムへと発展していく。

どんな時代に生まれ、どんな人と会い、どんな影響を受けたか。

付き合いが深くなると、話を聞くことで、自分との違いも分かる。いわば、かけがいのない付き合いは、合わせ鏡のようなものでもあり、自分の認識と他者の認識の理解を深める。

先日、近所に住むシェフのところで働く21歳の男の子と話す機会があり、友達どうしでゲームの話が多かったという。う~ん、残念、と思ってしまうのは、私がオジサンだからという訳でもないと思うのだが。。。
その店で働いて経験したこと、分かったことは、友達にも伝えるんだよ、と話した。

自分を成長させてくれる場が少なくなっていると思う。残念だ。

岡潔さんが言うように、世界的に人間の知力が低下している、かもしれない。

知識を吸収するより、話す、経験する、発見する、そんな元になっている人間の創造性を培う場が少なくなってきている。
そんな話をシェフにしたら、塾やったら?と言われた。

私は山岳部の出身なので、山登りや自然の中でやるかなあ、と言った。
今はできないけれど、いつか。

小林秀雄と岡潔の対談「人間の建設」から

小林秀雄と岡潔の「人間の建設」という対談集を読む。
いくつも引用したいところはあるのだけれど、
伝えたいことからして以下に絞ろうと思う。
専門分野はさらに複雑化していて、現在の数学は新しい論文を読むのに大学院のマスターコースを修了したくらいでないと分からないということで、
非常に時間がかかるものとなっている。その結果元となる数学の創造性や面白さや、そして岡さんの言う情操を育むのが、非常に難しい状況となっていることを知る。よく分かる。
P・ドラッカーの言葉で、人間は、複雑化していく社会の情報のコントロールをいつかできなくなるだろう、というメッセージは、現在の同じ状況を示している。(だからこそ、ドラッカーは、マネージメントを説くのだが)
複雑化は、この場合、専門化、多様化と同義である。つまるところ、エントロピーの増大をベースに、事である知識や情報も肥大化していっている。
では、人間はこのエントロピーの増大をどのように生きるべきかという最大の命題に直面している。
岡さんの言う「情操」は、このエントロピーの増大とは逆のベクトルを持つ精神の運動ともいえる。人間こそが、このネゲントロピー(エントロピーの増大化に対して逆の指向性を持つ)を生きることができる。
先日書いた多様性と一途の同時存在は、物質と精神の働きと言い換えることもできる。このバランスが、すこぶる悪いのが現代とも言える。

小林さんも岡さんも、いい顔をしている。小林さんの顔は、よく見る写真に比べて、ややふっくらしているが、ふたりとも存在の香りがある。
この存在の香りは出そうとして出せるものではない。生き方から生まれるものだから。

小林秀雄さんについて

小林秀雄さんの「本居宣長」を読んだ。

小林秀雄さんは、愛の人である。
愛があるとか愛に満ちたというより
愛そのものの人である。