日本について 5月4日

自分の不勉強を反省し、ゴールデンウィークで本のまとめ読み。

・「天皇の原理」小室直樹著
日本の天皇制がどういう変遷をたどったか知るために読む。

・「異形の王権」網野善彦著
網野史学の中で南北朝期の後醍醐天皇がどう語られているかを知るために読む。

・「日米開戦の真実」佐藤優著
大戦直後、右翼の代表的知性だった大川周明のNHK講演。

・「日本教の社会科学」小室直樹&山本七平対談
小室直樹氏の盟友であった山本七平氏を始めて読む。

・「ナショナリズムの克服」姜尚中&森巣博対談

・「愛国の作法」姜尚中著
国体ナショナリズムの批判を読むため。

・「挑発する知」宮台真司&姜尚中対談
参考になったが、2004年で状況が少し古いかも。

・「日本政治思想史研究」丸山真男著
日本の政治思想を語る上での定番。

まるでヤミ鍋のようにドカドカ入れて、最後は自分の中でどう消化するかというところ。

今日の段階でいうと、ナショナリズム関連の本は、出来るだけたくさん読んで現在どんな議論が展開されているのか知っておいた方が良いというのが感想。

天皇の歴史的変遷については、学校でも深くは学ばなかったので、簡単に紹介。

平安時代の天皇は、ご飯も食べ(当たり前か)、恋愛もし、歌を詠む普通の人。
しかし鎌倉時代に入り、源頼朝死後、奥さんだった北条政子が配下の武士に仕切り直しをする。それは朝廷に対しては絶対的畏敬の念をもって接していたわけだが、朝廷を選ぶか、幕府を選ぶか、この二者択一を迫るというもの。
皆のもの、頼朝に世話になっただろう、朝廷をとるが幕府をとるか、この場ではっきりせい!と。

これで天皇の位置づけが180度転換する。承久の乱。

それまで天皇の言葉は絶対で、予定調和説。どんなことでも天皇がおっしゃるわけだからそれは神の言葉、という位置づけが、どんどん変わっていく。
天皇はどんな良いことをするのか、という善政主義に変わる。
その後北条氏は、ワイロやいろんな乱れで凋落し、朝廷は後醍醐天皇の時代。
朝廷と幕府の対立が北朝と南朝の分裂を生み、天皇が二人存在するという状況。天皇が天皇であるために必要となる三種の神器は南朝にある。当時の南朝の参謀、北畠親房が、偽りの三種の神器を北朝に渡したため。
平安期に天皇のお供ではべっていた人たち、(網野史学では、後世の被差別人、非人、遊女のルーツがそういう人たちであった)そいういう人たちや、漂白の民をたばね、そして楠木正成や新田義貞などの名武将が中心となり、総力戦をかけ、南朝が権力を奪取する。
しかし、その後、味方だった足利高氏に裏切られて、転覆。
このあたりは「異形の王権」に詳しい。

その後、三種の神器を北朝に渡し、統一を見る。北朝と南朝が交代で朝廷を担当するという約束は守られず、南朝はそのまま衰退。従って、三種の神器が存在する今の天皇家は、北朝の系統。

さて、次は、江戸時代に入る。北朝と軟調はどちらか正統?この論争が再燃。
以下、「天皇の原理」より引用。
この大論争は、徳川時代を通じて激しく闘わされ、余波は明治から昭和初年にまでも及ぶ。この大論争の争点の一つは、南北朝のいずれか正統であるか。もう一つの争点は、建武中興は何故、失敗したか。徳川時代を通じて、大論争が繰り広げられていった。そして、この大論争の過程を通じて、承久の乱で死んだ天皇イデオロギーは復活してゆくのであった。(この論争は崎門学(きもんがく)を中心になされ、創始者の山崎闇斎の弟子が浅見絧斎。)
天皇は神である。天皇が正しいことをするのではない。天皇がすることだから正しい。これが、天皇イデオロギーの教議。この教義が復活した。復活することによって、天皇は「真の神」となった。(天皇の原理 P297-298)

この流れで明治維新まで一直線。ご存知、尊王攘夷。

さて、海外では1800年代も、列強の帝国主義時代。東インド会社でしこたま儲けたイギリスは、インドでアヘンを作らせて、中国の絹・綿織物の支払いに充てている。麻薬づけになって怒った中国は戦うが、軍事力で敗北。中国の植民地化が一気に進む。
日本は、日清・日露戦争でウカレ気分。
前提は人口の膨張と近代化、帝国主義。

満州事変から大戦へ。大戦直後、NHKラジオで放送された大川周明の講演が、「日米開戦の真実」佐藤優著に収められている。何が語られているかは、読んでいただくとして、大川周明は、当時日本の最高知性とされ、出版されたその講演は大ベストセラー。大戦はすでに始まっているわけだが、植民地化されたインド中国を救済するというのが大義名分。国体という言葉はここでも使われる。大川周明は、東京裁判で、東条英機の頭を後ろの席からスリッパで叩いたり、パジャマ姿で登場したことは有名。佐藤氏は、裁判をコメディー化することで、その有効性を白紙にしようとしたのではないだろうかと分析。

さて、ここで見ておいたほうがいいのは大戦中の矛盾。
熱烈なる国体賛同兵士は、戦争が近代戦となっているため、本当に必要な兵の資質ではなかったこと、実際の戦争において目的と手段が入れ替わり、よくある精神がなっとらん!=体罰なんて当たり前。統帥権が独り歩きし、学徒動員、一億総玉砕、はては人間魚雷と命が犠牲になっていったことは常識。

佐藤氏は「日米開戦の真実」で、大川周明の講演を文章として紹介することで、考える機会を提供しようとしているのだろう。

戦後、国体ナショナリズムをどう捉えなおすかが日本の知識人の使命。でないと同じことがまた起こる。また同時に、大戦後、タイやマレーシアの首相から、大戦当初イギリスを破ってくれた自立の自信を与えてくれたと感謝するメッセージも発信されている。(「日本国民に告ぐ」小室直樹 P264)

さて、次に姜 尚中氏「愛国の作法」を読む。

以下ポイントとなっているところを引用。
近代国家としての国民国家を考えるとき、国民を「エトノス」という感性的な存在とみなすのか、それとも「デーモス」という「作為」(社会契約)によって成立する意志的結合体とみなすのか、そのどちらかによって国家のあり方、つまり「国格」も変わってこざるを得ません。
両者は図式的にいうと、「エトノス」-「(感性的)自然」-「血」-「民族共同体」と、
「デーモス」-「(意志的)作為」-「契約」-「国民共同体の二つの系列に整理できます。
これ納得。
丸山真男の「軍国日本」のファシズム的な「ヒステリー症状」は、フロムの言葉に意訳すると、攻撃的なサディズム的性格よりもむしろ、マゾヒズム的な側面に起因しているということです。
丸山真男の捉えかたをフロムの言葉を借りて紹介している。
以下引用
(マゾヒズム的努力の-著者の注)もう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、一層力強い全体の部分となり、それに没入し、参加しようとする試みである。その力は個人でも、制度でも、神でも、国家でも、両親でも、あるいは肉体的調整でも、何でも良い。揺るぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることによって、人はその力と栄光にあやかろうとする。人は自己自身を屈服させ、それのもつすべての力やほこりを投げ捨て、個人としての統一性を失い、自由をうちすてる。しかしかれは、かれが没入して力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りとを獲得する。またかれは疑惑という責苦に抵抗する安全性も獲得する。マゾヒズム的人間は、外部的権威だろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。・・・かれの生活の意味やかれの自我の同一性は、自身が屈服したより大きな全体によって決定されるのである。(フロム「自由からの逃走」)

「愛国の作法」は、いたるところでエーリッヒ・フロムが引用されており、大ベストセラー「愛について」からの引用も多い。愛国を、ジャック・デリダの脱構築を用いて展開していることが分かる。つまり、愛国を一度歴史的な意味で精査し、そして解体し、再構築するという方法。

姜氏の著作は「ナショナリズムの克服」から読み始めたため、始めかなり違和感があった。外から見ている感じがしていた。対談者も在豪だし。
スパスパと切ってみせるやり方はシャープで問題を可視化しているのだけれど、どこか違和感を感じていた。この違和感が、自分の中にある「共同体」からきていることもわかる。どんどん姜氏を対象化していく自分がいた。そして、自分のことも考えていた。

姜氏のホームページを見た。「愛国の作法」を2年連載したらしいのだが、そこで政治を学問として扱う限界を感じていると語っていた。そして文学と政治をやってみたいと。トルストイに興味をもっているという。この話を読んで、わだかまりが幾分かは溶けた。

トルストイであることも分かる。人とのつながりを前提とする公、そして国家を越える公は以前から語られているが、文学を通してそのつながりに踏み込み可能性を探ろうとしているのだろう。そして、情(こころ)で反応している自分は、きわめて日本人的。

今、個人に対しては性善説を、国家に対しては性悪説を。なんだかこれがぴったりきている。国が国相手に性善説で対応しようものなら、大変だ。
国民一人一人が国家を性善説で捉えると、間違う。それは今の民主党に対しても同じ。だから国には監視が必要だということも肝に銘じたほうがいいだろう。
市民による国家監視(シビリアンコントロール)は、日本ではまだ黎明期。

そもそも組織は、ある一定の人数を越えると共同幻想が必要になり(学校は先生が面倒みれる最大数が40人位とされ、企業はトップと平社員の関係が70人位で最大。相互扶助を前提として社会的絆を持ちうる最大数としてダンバー数があるが、それは150人としている。)、その最大値を超えたときに個人と組織の関係はガラリと変わる。ここをどこまでいっても性善説で捉えようとするときに、不幸が起こる。

政治から離れて文化で捉えると、命から生まれ命を育む文化は、どこの国の文化とも戦争を起こさない。日本にはあらゆる国の文化が流入して何でもありの国だ。それだけ懐が深く受け入れることができる平和の深層がある。