一神教と多神教

このところ、一神教と多神教について考えることが多かった。

昨秋、C・G・ユングの「ヨブへの答え」を読んだ。林道義氏が10年かけて訳したこの著作は、ユングの著作の中でも最高傑作とも言われている。
昔、キリスト教に対して距離を置いていたのだが、整理する大きな転換点になった。
高校時代に遠藤周作氏の「沈黙」を読み、その後、アンドレ・ジッドの「狭き門」を読むという読書体験が、高校生の私には、それ以上探求をするには、ナビゲーターが必要だったが、自分の周りには居なかったのが理由だった。

ちなみに、遠藤周作氏がヨーロッパで著名な日本人作家としての地位を築いたのは、この「沈黙」が与えた影響からだろう。

旧約聖書に登場するヨブ記では、トリックスターであるサタンにそれほどまでに神への信仰が強いのならば、試してみればと神がそそのかされる。神であるヤーヴェに従順なヨブは、その結果、子供まで殺され、治らぬ病いを患い、それでも神への信仰を捨てないでいる。ヤーヴェは残酷にして慈悲深く、現象そのものであって、「人にあらず」である。この道徳すらないヤーヴェの二重性(神の無意識の矛盾)に対決するヨブが、その二重性を認識することによって変化が起こる。ヨブの認識、智恵(ソフィア)によって、ヤーヴェは変わらざるを得なくなる。それは神が人間になるということであった。これは相手が分かったと同時に、自分も分かるという同時変化が、天上界において起こる。

ユングの言葉を借りると、「ソフィアの接近は新しい創造行為を意味している。しかしこのたびは世界が変えられるのではなく、神が自らの本質を変えようとするのである。人類は前のように滅ぼされることになるのではなく、救われることになるのである。この決断には、人間を愛するソフィアの影響が認められる。つまりつくられるのは人間ではなく、人間を救うためのただ一人の神人である。この目的のためには創世記とは逆の手続きが使われる。男性である第二のアダム(キリスト)は最初の人間として直接創造主の手からもたらされたのではなく、人間の女性が(マリア)から生まれるのである。 
(中略) 
こうした見解はなるほどマリアの人格が男性的な意味で高められることを意味している、と言うのは彼女はキリストの完全性に近づけられているからである。しかしそれは同時にまた完全性ないし十全性という女性的な原理が病んでいることも意味している、と言うのはこの女性的な原理が完全主義化によって、マリアをかろうじてキリストから区別するぎりぎりのところにまで縮小されてしまうからである 太陽に近づくほど光が薄れる! こうして女性的理想が男性的にその方向へねじ曲げられていけばいくほど、女性は完全性を目指す男性的な努力を保証する可能性を失い、ついには後に見るようにエナンティオドロミー(訳注より、ユングはあまりのも一面的になりすぎると、無意識の中に逆の方向性が強まり、その作用によってやがて意識の在り方が逆転するという意味で使っている。)によって脅かされる男性的理想状態が生まれてしまう。完全性を通っていく道は未来に通じていない。たとえ通じても、逆転、すなわち理想の破綻になる。その破綻は十全性という女性的理想によれば避けることができるであろう。ヤーヴェ的な完全主義は旧約聖書から新約聖書と受け継がれ、たとえ女性的原理が大いに認められ高められたとはいえ、家父長的支配には勝てなかった。」

旧約聖書から新約聖書に至るヤーヴェからキリストの物語は、まだ続く。このように女性原理をしぶしぶながら完全性の中に取り入れて認めながらも、家父長的支配を続ける結果、無意識のうちに育まれている否定的感情の爆発、つまり抑制させられた裏側で生じる対立物として、ヨハネの黙示録が位置づけられる。
ヨハネの黙示録では、七つの封印が開かれることによって、「こうして、キリスト教の現存、忍耐、隣人愛や敵への愛、また天にまします愛の父とか人間を救う息子や救世主いった、あらゆるイメージの横つらを張りとばすような、おぞましい光景が生まれるのである。 中略 ついに7番目の天使がラッパを吹く鳴らすと、エルサレムが破壊された後に、天上に、足の下に月を踏み頭に十二の星の冠をかぶった太陽の女が現れる。彼女が産みの苦しみの中にあり、彼女の前には火のように赤い竜がいて、彼女が生む子供を食おうとしている。」
この封印が開かれるとは、「彼女とは、女性本来の十全性を奪い取られていない女性の原人であり、男性の原人としての対」である。

キリスト教がこのように十全性を持つ女性性を男性原理である完全性のもとに位置づけ片翼飛行をしている宗教だ考えると、世界の限界状況にもつながる理解ともなり、ユングの「ヨブへの答え」は、イリイチのジェンダー論とはまた違う、壮大なユダヤ・キリスト教とそのロゴスの歴史という観点からジェンダーを捉える画期的な試みだと言える。
このような試みが可能になったのは、エディプス還元主義のフロイトと決別したユングの、男性性と女性性の深淵を語ることができた天才性に拠るのは確かだ。もちろん引用は一部であり、エノクや各福音書も登場するので、読まれることをお勧めする。

さて、そんなふうにユダヤ・キリスト教を代表とする一神教への整理と理解をしたところ、多神教に想いを馳せていた頃、といっても数週間ほど前だが、町田宗鳳氏の「人類は宗教に勝てるか 一神教文明の終焉」を読んだ。

この「人類は宗教に勝てるか 一神教文明の終焉」は、多神教的コスモロジーの復活、無神教的コスモロジー(決してマルクスの言う無神論ではない)の時代へ、と展開され、現在の世界にとってとても重要なテーゼとなっている。長くなるので、一読をお勧めする。
いずれにしても一神教が限界にきているのはゆがめない。

町田氏は、法然を調べていて知った方だ。法然に関する重要な著作を出されている。

なぜ、町田氏が法然を取り上げたのか、分かるような気がする。法然には50年に一度、天皇が新しい諡号を与える。今は和順だ。鎌倉期の仏教膨張期の前に位置する法然は、親鸞、日蓮、道元など鎌倉期のスターが登場する以前の土台を作っている。それも、世の中が飢饉と不安で動乱する京都末期にあって。

日本に登場する天才たちは、薄氷の上を歩み続ける世界の危なさに対して、さまざまな警告とヒントを与えている。また古事記を読むと、国の成り立ちが、いかに平和であるかよく分かる。イサナミとイサナギが、二人で仲良く作り上げた国で、しかも悪い神が出てこないのだから。出ても八岐大蛇であるけれど、尻尾からは三種の神器のひとつである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出てくる。

私たちは、世界の中でいかに重要な国に住んでいるか、その意味を分かっていないのは、当の日本人であるのかもしれない。