東北の歴史について学ぶ

講談社学術文庫から出ている赤塚憲雄さんの
東北学/忘れられた東北を読む。

20年にわたる東北のフィールドワークを通して、柳田民俗学からはみ出した真実の東北諸相を、一つ一つ丁寧に洗い出している。柳田民俗学が、米、祖霊信仰、**の三身一体に還元していく一つの統一理論体系だったとすると、東北がこの還元を拒む深い深い歴史をもっている、そのことを学ぶ。

東北においてのコメの歴史が、たかだか60年ほどのものでしかなく、それまでは稗を中心に作られていたこと。また稗は生命力が強く東北の寒冷地においても非常に食料として適していたことを知る。コメを作る気候には、二毛作が可能な西日本が適していたわけだけれども、政府の減反政策や米を食べる食習慣が変化していったこととあいまって、西日本では作り手が減少していく。東北のコメが市場に流通してくるウェイトが高まるのは1990年代になってから。

話を中世以前にまで戻すと、ヤマト王権の東北制圧、坂上田村麻呂による東北の制圧がターニングポイント。大同二年に完成するこの制圧は、同時に東北の諸地方で、寺院の建立が起こる。清水寺の建立も同年。アテルイ、悪路王の敗北も絡む。
中央からの制圧に対して敗北し耐え忍んできた歴史。

もっと時間を戻そう。縄文後期、東北が隆盛した時代でもある。中期は諏訪湖が中心。豊かなブナの森、栗、山菜、魚など食には困らない当時の生活。山内丸山で300人くらいの集落。柳宗悦が、山内丸山を見てこれは縄文ではないと言ったらしいが、縄文中期への思い入れのあまり、後期を否定するというのも違う。集落内に墓がある。集落の外に墓を持っていた弥生とは、死生観が全くと言っていいほど異なる。
人の死を慈しみ、共に在る死生観。男と女は、集落の中で交わり、権力や制度も生まれていない。

昔、太宰治や寺山修司にどこか母親のつながりを感じさせる何かを見ていたが、縄文母系社会にルーツを見ることができるかもしれない。
表が裏であり、裏が表であるような相反の関係が中央と東北にはある。

悲しみを分かること。
人間の心を失ったら何も始まらない。

共感。志。