西村賢太を読んで

週末の休みで西村賢太を読んだ。
暗渠の宿、どうで死ぬ身の一踊り、そして苦役列車の三冊。

新潮社のサイトに苦役列車の冒頭紹介文があり、グイグイ引き込まれた。

この人のテーマは、男は一人で死ねるか、逆を言えば、男は女なしで孤独に生きることができるか、だと思う。
孤独でも一人で生きるその終極に芝公園で凍死した藤澤清造の死様がある。
しかしながら当たり前のように女との温もりを求める主人公がいる。
この二律背反の中で、互いに相容れず男女の溝を亀裂として深めていく主人公がいる。

草食系男子とは一線を画すこの作家は、ちょっとした行き違いでいとも簡単に壊れてしまう男と女の意識の限界を描きうる希有な作家であり、事実しか書けないとすることで、予定調和のフィクションにまみれた作り物の文化や、ままごとのような恋愛ごっこに、思いっきり×(バツ)をつけてくる。
異様に長い一文には、日々浮かんでは消える泡沫のような意識を正直にトレースして余りない。9割は事実だが、8割はフィクションという。しかしながら8割のフィクションとは、言葉を使って書く限り、ある観点が導入されることに他ならず、その意図性を知ってることである。

読んだ人の多くが何も残らず、すっきりするという。開かずの扉を開いて本当のことを書いたとき、その情念や恨みは昇華する深層意識の構造に由来しているのだろう。

言葉が氾濫して表層的な足し算状態となっている現代の文化状況のなかで、こういう引き算の感覚を元に、フィクションとして書ききっているところが面白い。