岡倉天心

昨年の秋、「岡倉天心」展に行った。
東京芸大創立120周年記念で開催された展示である。

直筆の原稿、手紙が展示されていて感動した。
まず、字が汚いのである。正確には、汚いというより、伝えることが勢いよくあふれ体裁や字の並びは後回しなのである。当時の手紙は罫線もないため、巻物のような和紙に筆で書かれている。
森鴎外に講義を依頼した手紙も、その字の放埒さが面白い。手紙の最後に講義のスケジュールが書かれており、今で言えば手紙1枚にでかでかとスケジュールが書かれていた。

当時の授業風景が写真で展示されていた。仏師の高村光雲に講義を依頼し、作品づくりに余念がないという理由ではじめは断られる。しかし粘る。工房を学校に持ってきてもらうという口説き方で。仏の彫刻を講義の中で作り、その作り方を教える授業だったらしい。

これは!と思った人間を口説いている。存在と存在が深く呼応している。形式など二の次だ。

坂本龍一があるビデオ対談で語っていたこと。バッハやモーツァルトの形式をそっくり授業では教えられているが、決して生徒はバッハやモーツァルトにはなれない。対談相手の村上龍が、無意識の世界ですねと膝をうっていた。
そう、立ち現れてくるのは存在。潜象の世界からである。

岡倉天心の「東洋の理想」を読んでいた。名文だ。さまざまな影響外国から受けながらも、日本文化と命・エネルギーをとらえ続けている。

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