今起こっていること

現象界が煮詰まっている。現象界は、モノとカネの世界。
この煮詰まりの結果、自己都合で思いやりのかけらもない自己中心的な意識とともに
人間の感情や衝動が噴出してくる。

一つ一つの小さな現象でも明確な背景と輪郭を持ってくる。

その出来事はなぜ生じたのか?
その出来事には、どんな要素が組み合わさっていたのか?

ニュースで毎日のように報じられる出来事にしても、政治にしても経済にしても
この現象界での組み合わせの結果、起こっている。
膨張のインフレに対して、収縮のデフレは、構成する要素をより明確にしてしまう傾向があるため
煮詰まりが起こる。

人間の感情についても然り。
ちょっとしたことで怒ったりするのは、感情が現象に左右され、川面に揺れる浮舟のようなあやふやなものになっているからであろう。
そして自分にとってちょっと都合のいいことがあると幸せだとか喜びだと感じているのが現実である。

しかしながら、より深く、より遠くから全く異なるエネルギーが生まれていると感じている。
煮詰まれば煮詰まるほど、深く遠いところから、はっきりして浮かび上がってくるもの。

分かりやすく仕事で言えば、それは、ミッション、ビジョンと呼ばれるものであり、トップ=代表が体現しているものになる。

モノは、合わせ鏡で考えるならば、その裏で作り出しているのは人間である。
どうもここがひっくり返ってしまっている。モノが先にあって人間が従属しているようなひっくり返り方が気に食わない。

昔、宮大工の方と話す機会があり、昭和30年代から始まった高度経済成長期に販売された家が、生涯住み続けるには、建て替えが必要になる日本の住宅事情に憤り、一生涯住める独自の注文住宅を事業展開された方だった。先日、奥山清行氏の本「伝統の逆襲」を読んだ。
やはり闘っている方々には、胸を打つものがある。

安くて使い捨てというアメリカナイズされた文化は、元々日本にはなかった。

さて、この使い捨て文化の傾向は、1995年から加速する。
日米構造協議である。大店法の撤廃が、商店街を壊滅状態に追いやり、地域の共同体が崩壊し、郊外の風景が崩れた。戦後二回目の敗戦だった。そして年次改革要望書が毎年突きつけられる。
2009年12月以降の改革書は、亀井元金融大臣が止めていたという話もあるが。

ワンシーズンしか使えないユニクロの千円セーターは、罪つくりと言わなければならない。
別にユニクロ全体を否定しているわけではなく、ヒートテック靴下は私も重宝した訳だが、
奥山氏の言葉を借りて言うならば、
モノを作るということは、生きているものを殺して作り上げる訳だから、今までより以上の価値を持つものを創り上げなければゴミを作ることになる。

少し引用しよう。

「伝統の逆襲より 引用~
「もの」を創造するときは必ず、どこかで同時に破壊行為が行われている。建築をする時は森で木が切り倒されているわけであり、自動車を作る陰には、大地を 削って鉱石を掘り出し、エネルギーを注ぎ込んで精錬している。最近では「環境に負荷をかける」という言い方がなされるがすべて破壊行為にほかならない。自 分の目に入らないところで起きているからといって、なかったことにはならないのだ。
だから破壊行為を上回るだけの「もの」の価値がなければ、新しいものは作ってならないのである。それがモノ作りをする人間にとっての規範だ。私は「レトロ 商品は根本的に悪である」と言い切っているのだが、それは破壊行為をしておきながら、昔と同じもの作っているからである。
~引用終わり」

これは凄い精神である。

言い換えれば、エントロピーの法則から私たちは逃れることはできず、使えるモノから使えないモノに変換せざるをえない文明の中に生きており、その物質のエネルギーを役立てる志というか精神が、アメリカナイズされた大量生産~使い捨てという物質文明とは決定的に異なる。

食べ物で言うならば、マズイものを作るのは、冒涜である。モノを人間のために使えない形にして、マズイものを作る訳だから。そして要となるのは、モノを作っている人間の状態が関係している。
スタッフがハッピーにやっているレストランは美味しい。

数日前、自宅でパーティをやったとき、私は味噌汁を作った。
友人がシジミを持ってきてくれたのでシジミ汁を作ることにした。
「シジミの口が開いたら、味噌を入れて大丈夫だからね」と友人。
そして、煮立った出し汁にシジミを入れたとき、すぐに口が開いた。
自分は生きているものを殺し、食べようとしている、そして同時に言葉が出た。
「シジミさん、私たちのために命を捧げてくれて、ありがとう。あなたたちの命は無駄にはしません。」
友人は、「今日は、ありがとうの日だね」と言った。
みんなが美味いと舌鼓をうってくれたとき、何かが味方してくれていると感じた。