人間は本来、地球の裏側で起こっている事態も直観で把握している

先日から或る直観がある。
友人達に使っている最近の言葉で、トータルという言葉を多用しているのに気がついた。
あるテーマを話していても、その分野だけではとらえきれず、トータルな、というか全体的な捉え方をしないと外すことに気がついた。

人間は本来、地球の裏側で起こっている事態も直観で把握しているではないだろうかと思う。

専門分野は専門分野として大切なのだが、専門分野だけではどうも捉えきれない或る全体性が、ますます重要になってきている。

全体は部分の総和ではない。そして部分を足し合わせても全体にはならない。
全体は或る直観の元でしか捉えられない、日増しにそういう考えが強くなっている。

現在起こっている金融恐慌について、アナリストたちが語る分析の数々は、事象の分析としては当たってはいるものの、人間の未来を指し示す光明に欠けているという点で、無責任極まりないとも感じている。
恐慌が起こっても、人は生きているし、文化はなくならず、貨幣もなくならず、政治も存在するが、それらは内部から変容する決定的なターニングポイントにある。

今の金融システムの崩壊が、強欲が引き起こした結果だとすると、お金の本質も変わるだろう。

お金に関して言えば、産業革命以降の人類がたどってきた歴史が、変容するぐらいの大きなターニングポイントだ。
強欲と私有に対して、逆は、善そして全体の未来のためにとなる。まるでボールの内側と外側がひっくり返るくらいの変化が、起ころうとしている。
人間が外部のモノ的な価値から一転して、本当の内面的な美しさに目覚めるときが来ている、そう感じている。

ドイツの今はなき哲人、ハイデガーが言うように、人は、死を前にして、平等に存在に向き合う。平たく言うと、死ぬ前にどんな状態で、どんな方向性の中で死ぬかが、実は人生最大の要だ。

知り合いのお医者さんが、言っていた言葉を思い出す。
「三人に一人は、死んだときに、まるで周りに星が降るような感じなんです。私は死は荘厳なものだと思いました。」と。

星が降る、なんてきれいな言葉なんだろう。彼が語ってくれたときに、ふと自分の存在が大きなものに受け入れられていることを感じた。