場について

小林秀雄全集の中に、小林さんたお付き合いした人たちが短いエッセーを寄せた巻がある。
これがとても面白い。
今日出海さんによれば、小林さんは集中力がたくましく、その結果、物を失くしたりすることが頻繁だったらしい。ヨーロッパへ今さんが一緒に旅行にいったとき、カメラを失くしてしまい、後で写っている写真を見て、自分の脇にカメラが置いてあり、そこで忘れたことが判明した、とか、逸話が楽しませてくれる。
周りには、青山二郎、河上徹太郎、中原中也、などなど、深い付き合いをしながら議論を重ねお互いに磨きをかけていった、そんな集まりと場があった。

人間、一人では成長できないのである。

国が変わって、1920年代のハンガリー、ブタペストから。ユダヤ人のノーベル賞受賞者が数多く出てくる。どんな謎があるのだろうと調べた。マイケル・ポランニーのお母さんがサロンを主催しており、そこにいろんな人たちが集っていた。ポランニー兄弟は、ともにノーベル賞の受賞者。また当時のブタペストには、カフェ・ニューヨークという場があり、そこに集っていたユダヤ人の学者からノーベル賞の受賞者が数多く出てくる。

そしてまた国が変わって、パリ。ダダイズムが生まれてくる場も凝縮された場だった。後のシュールレアリズムへと発展していく。

どんな時代に生まれ、どんな人と会い、どんな影響を受けたか。

付き合いが深くなると、話を聞くことで、自分との違いも分かる。いわば、かけがいのない付き合いは、合わせ鏡のようなものでもあり、自分の認識と他者の認識の理解を深める。

先日、近所に住むシェフのところで働く21歳の男の子と話す機会があり、友達どうしでゲームの話が多かったという。う~ん、残念、と思ってしまうのは、私がオジサンだからという訳でもないと思うのだが。。。
その店で働いて経験したこと、分かったことは、友達にも伝えるんだよ、と話した。

自分を成長させてくれる場が少なくなっていると思う。残念だ。

岡潔さんが言うように、世界的に人間の知力が低下している、かもしれない。

知識を吸収するより、話す、経験する、発見する、そんな元になっている人間の創造性を培う場が少なくなってきている。
そんな話をシェフにしたら、塾やったら?と言われた。

私は山岳部の出身なので、山登りや自然の中でやるかなあ、と言った。
今はできないけれど、いつか。

小林秀雄と岡潔の対談「人間の建設」から

小林秀雄と岡潔の「人間の建設」という対談集を読む。
いくつも引用したいところはあるのだけれど、
伝えたいことからして以下に絞ろうと思う。
専門分野はさらに複雑化していて、現在の数学は新しい論文を読むのに大学院のマスターコースを修了したくらいでないと分からないということで、
非常に時間がかかるものとなっている。その結果元となる数学の創造性や面白さや、そして岡さんの言う情操を育むのが、非常に難しい状況となっていることを知る。よく分かる。
P・ドラッカーの言葉で、人間は、複雑化していく社会の情報のコントロールをいつかできなくなるだろう、というメッセージは、現在の同じ状況を示している。(だからこそ、ドラッカーは、マネージメントを説くのだが)
複雑化は、この場合、専門化、多様化と同義である。つまるところ、エントロピーの増大をベースに、事である知識や情報も肥大化していっている。
では、人間はこのエントロピーの増大をどのように生きるべきかという最大の命題に直面している。
岡さんの言う「情操」は、このエントロピーの増大とは逆のベクトルを持つ精神の運動ともいえる。人間こそが、このネゲントロピー(エントロピーの増大化に対して逆の指向性を持つ)を生きることができる。
先日書いた多様性と一途の同時存在は、物質と精神の働きと言い換えることもできる。このバランスが、すこぶる悪いのが現代とも言える。

小林さんも岡さんも、いい顔をしている。小林さんの顔は、よく見る写真に比べて、ややふっくらしているが、ふたりとも存在の香りがある。
この存在の香りは出そうとして出せるものではない。生き方から生まれるものだから。

小林秀雄さんについて

小林秀雄さんの「本居宣長」を読んだ。

小林秀雄さんは、愛の人である。
愛があるとか愛に満ちたというより
愛そのものの人である。

日本について

昨秋から日本を捉え直ししたいという欲求が強い。
岡潔さんの「春宵十話」「日本人のこころ」「日本民族」を読む。
言わずとしれた日本を代表する大数学者。
何よりも前に文化と自然を置く。
政治よりも経済よりも前に。考えてみたら当たり前のこと。
人間がいて始めて社会が成り立つ訳だから、この人間の命を育む自然・文化を抜きにして、語ることはできないという強い使命感がある。
そして、命を育む自然と日本人の関係を、「情緒」「情操」から掘り起こし、万葉、芭蕉を通じて日本人の情操に流れる源流を捉えていく。
1960年代に書かれた本だが、人の顔に獣性が宿ってしまっているという危機感を持っていらっしゃる。
獣に象徴される自己中心性は、お金、自分だけ良ければいい、などなど、ローマ末期を思わせる資本主義の退廃過程として現代を見ている。バベルの塔はいずれ崩壊する。
数学は芸術。この言葉も胸を打つ。

岡潔さんが数学で研究成果を上げられた分野は、当時の3つあった領域から新たな成果を出された訳だが、外国からは、OKAKIYOSHI がチーム名なのではないかと思われたこと、そして、実は、たった一人の人間が行った研究成果だったことが驚愕された。

自身の体、心で何が起こって創造の発露が生まれたかを書かれているが、自然が関係している。
「創造は生命の燃焼である」とは岡潔さんの言葉。
創造活動が、体と感性を通して行われており、熟成の期間を通った後、はっと気がつくというプロセスでもある。

小さなところでは、個人的に、仕事の行き詰まりや、実務的なアイデアが必要なとき、公園を散歩してくることにしており、大体、戻ってくると整理され解決の糸口をつかんでいるというやり方を持っている。どうしても緑豊かな大きな公園が必要になっている。

岡さんの著作を読んでいるとき、「感動する!数学」(桜井進著)を知った。

特に、黄金率について少し紹介すると、オウム貝やひまわりの種の配列、そしてマツボックリやツクシの螺旋が大きくなっていく比率と銀河系の渦巻きが大きくなっていく比率は等しい。また、オウム貝の渦巻きを500万倍に拡大するとハリケーンの渦巻き雲になる。
この比率は、また人間のDNAにも見られ、1単位の長さと幅の比率も同じ。自然界のいたるところで見いだされる。頭のつむじも同じなのだろう。
この黄金律は、数学のフィボナッチ数と呼ばれる。
フィボナッチ数とは、隣り合った数を横に数で順次足していくとできあがる数列で、0,1,1,2,3,5,8,13・・・と続く。
次に、右の数字から左の数字で割ってみると、数が大きくなればなるほど、1.618に限りなく近づいていく。5÷3=1.666、8÷5=1.600、13÷8=1.625と続けると、限りなく1.618に近づく。
自然界のみならず、金融相場の世界でも見られ、有名なエリオット波動(3波と2波で形成される相場の値動き)もフィボナッチ数列に対応していることが多い。
日本の縄文土器の文様は、曲線が多いことで知られるが、渦巻きは多く存在している。改めて人間の自己中心的な世界がいかにちっぽけな世界でしかないかを知ることになる。

縄文をルーツとする考え方を今までもっていたのだけれど、日本は多様性に富んだ国で、受け入れて多様性を広げると同時にもう一つ逆のベクトルである一途さを同時に持つ世界でも稀に見る国という考え方を取り始めている。
一途は宗教性に関係する。
この国は本当に不思議だ。人間に「ゆらぎ」がある。ゆらぎは1/f ゆらぎとして広く知られているが、例えば、アニメのキャラでもそう。ヒーローがずっこけたり、カッコ良かったり、泣いたり、笑ったり、同じ存在の中でさまざまな多面性が飛び出てくるし(多次元を同時存在していると言ってもいい)そして演出が面白い。このあたりがジャパニメーションの強み。例えば、バットマンは、善悪を前提にしているがために、キャラの行動が決まっているし、一神教では限界があるんだろう、とも思う。

ちなみに、最近大ヒットを飛ばしている洋画アバター(ジェームズ・キャメロン監督)を見たが、もののけ姫のアイデアが入っている。獣を殺して自分たちの食とするときに、神道の循環的な世界観が取り入れられているし、森の精も、もののけ姫で登場する。そういう循環的世界をハリウッドが自分たちの限界を破るために取り入れ始めたのだなあというのが、見終わった感想だった。

アメリカは歴史が無い代わりに、映画で歴史を作ろうとする国。
どんな映画がヒットするかを観ていると面白い。
リバタリアニズムのクリント・イーストウッド作品などがもっと観られるようになると、変わる可能性をもっている。

しかし、今のアメリカの中には、戦争を問題解決の手段としている勢力があるのも確か。

アメリカがヤバくなればなるほど、戦争の可能性が高まる。中東が火を噴く可能性がある。
今年秋以降が問題。

経済的に言えば、今回のデリバティブ崩壊にともなって、CDS(クレジット・デフォルト・オブ・スワップ)は、リーマンの際に相殺されたが(つまり、両サイドの持ち主双方が、オープンにして相殺したことで損失は8%程度に抑えられた)、CDOはいたるといころに入り込んでいるため、この相殺による解決が事実上取れない。
だからアメリカが本当にコケたとき、戦争か、統制経済か、そして統制経済を世界に波及させるか、選択肢は限られている。

しかしながら、予想に反したことが起こるのも歴史。

世界的な危機回避は、日本がアメリカとの関係を含め、どんなモデルを作れるかに依っていると言っても過言ではないだろう。

心して生きよう。

世界は何故平和にならないのか?

人間の歴史は戦争ばっかりで、何故平和にならないのか?
平和と愛に充ちた世界にするお金儲けより、戦争でお金儲けする方が儲かったというのが元だと思う。

日本は、多様性に満ちた国で、自然が豊かだ。この自然の豊かさは、情緒と死生感をもたらしている。そして多様性と同時に存在する一途さを、体に秘めて、世界でも稀に見る平和な国民だ、というのが私の持論。

分断されていないので、究極、世界平和に向かう。

縄文の遺伝子が、古代から脈々と続き、愛と平和を体から語ることができる。

英語で「あなた」はyouしかないが、日本語には、あんた、おまえ、君、いろいろある。人との関係性が文法通りにはいかないので、関係を創り上げる必要がある。

愛をもって部下をしかる、とか、愛をもって取り組むとか、日本の源には、愛があると感じている。イザナギ&イザナミが二人で仲良く国を創っているし。
愛とは融合する美しい生命のエネルギーを元にして、愛は七変化する。いつくしみにも、怒りの中にも、悲しみからも生まれる。

明治以降の近代化と官僚制度、そして、第二次世界大戦後の占領軍政策で、日本は大切なものを忘れてしまった。戦争直後の総懺悔は、鬱病の始まり。アノミーはここからやってくる。私たちが悪かったのではないだろうか、という内面へのフィードバックは、相手が存在しない限り、鬱病になる。元気が無くなる、といったマイナス要因。

それより、先の平和を創ったほうがいい。愛をもって世界に語りかけたほうがいい。
平和はすでにあるものではなく、創るもの。それは仕事でも。

今日、国の借金が1000兆に届きそうなことを知った(自民党時代で作られた比率が殆どなのだが)。あと27兆の借金で1000兆の大台に達する。政治も経済もギリギリのところにいる。

日本がまだ凋落していないのは、国民全体の資産が1300兆(数年前は1500兆)ほどあるため。プラスで300兆となり個人資産の内部留保があるからこそ世界から認められている。この収支が崩れたとき、日本は、投資対象国にもなれず、国債の信用も含めて、まっさかさまに落っこちる。
自民党時代のツケはあまりにも大きい。

最悪は、デノミ、預金封鎖で新札発行し、たんす預金を吐き出させ借金をチャラにする政策が待ち受ける。民主党には、最悪の手段を選んでほしくない、痛切に思う。しかし、国家はデノミを実施する権利を有し、1946年突然、新札発行した。このあたりの混乱は、梶山季之の「小説GHQ」に詳しい。

先ずは官僚の数を減らすことだ。大企業にしても本部機能が肥大して収益が上がったためしが無い。基本は、人数が増えると複雑性が増大し、コストが上がる、自明のことだ。世のため人のために働く官僚のみを残し、給与水準は下げずに、数を減らす。

安いから天下りが増え、天下った団体では、3年で3000千万の退職金をもらい、それを3社繰り返し1億円近い退職金を得るというとんでもない官僚のやり方がある。そして退職金は月単位で計算されているのだ。こんな世界が民間のどこにある?!

ギリギリのところまで来ている。

書き足したら過激になってしまった^^; 今度は芸術の話を書こう。

検察とマスコミ

「情報は、自由になりたがる。」
これは、MITメディアラボの学長であるニコラス・ネグロポンティの言葉。

民主党幹事長である小沢一郎氏をめぐっての一連の検察の捜査活動は、
世論的に小沢氏に分がある。
記者発表を見てそう思った。

検察がマスメディアにリークして世論誘導を行っていること(公務員法違反)、閉鎖された記者クラブの問題とマスコミの利権、新聞の再販制度、新聞とテレビのクロスオーナーシップ(資本提携することによる言論の一元化危惧)に対して、ネット上では怒り爆発である。
私もその一人。

検察とメスメディアが相互権益を自己保身のために、権力を利用しまくっていると捉えられて当たり前だろう。

記者発表に読売TV・読売新聞の記者が何人来ていたのだろう。
質問者の半分近くが読売で、質問の仕方に礼儀の無く、まるで小沢をつぶしてこいという指令を受けているような荒い意気込みだった。
記者クラブを守るために、読売が記者クラブのセキュリティを問題にして、その開放をつぶそうとしている訳だが、レベルが違うところで起こっていることがある。それが、「情報は自由になりたがる。」

反民主ののろしを上げる産経新聞は、小沢容疑者という言葉を間違って使ってしまい、あわてて修正するものの、大阪版では修正が間に合わなかったらしい。一面にお詫び記事を掲載するべきだろう。きっこのブログより

原口総務省大臣が、クロスオーナーシップの廃止を法案で検討すると記者発表したにも関わらず、大手マスメディアは、どこも報じていない。

ネットを通して情報は自由になりたがっており、この大きなトレンドから自分たちが数年以内に見放されることを、大手マスコミはまだ痛感していない。平均年収が1500万というTV局・新聞社は、通常1000万の年収を越えると守りに入り、10年サラリーマンをやると辞めるのが怖くなるという人間の習性から、ますます保身に走ろうとするだろうが、今までの事業モデルが成立しなくなってきているため、レイオフの可能性も今後出てくるだろう。(広告激減。朝日新聞の広告にパチンコ屋の開店広告が入る時代だ)

どうせダメだと思ったら、アメリカのメディアのように、シリコンバレーとレイオフされたマスコミの記者が組んで、新しい事業をくみ上げるような動きでもやってみたらいいのに、と思う。ただし垢を落としてから。

私は、以前、大企業で働いた経験もあり、自主的に辞めて小さな会社を立ち上げ、現在に至る訳だけれど、どうせレイオフされる人たちにアドバイスを送りたい。
会社を辞めたら、土方か飛び込み営業か、ベタな仕事を垢落としのためにやる。肉体労働もいい。私は、垢落としのために、道路工事のガードマンをやった。おかげで6kg体重は減り、足が強くなった。次に、新聞の拡張員をフルコミッションでやった。
新聞の拡張員時代に見たことは、本当に凄かった^^; 
こういう仕事をやると怖いものが無くなる。

先日、自宅の前を工事で騒音が出るため、土方のおじさんが、お詫び回りでやって来た。東北弁で挨拶をしたおじさんの笑顔がきれいだった。私も丁重に挨拶をした。
こういうことは、とても大切にしている。

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

最近、掃除が楽しい毎日です。

床のぞうきんがけをすると空間がすっきりとして、
大晦日に玄関から家を眺めていると
思わずパンパンと柏手を打ってしまった。

ここまで掃除が好きになったのは、きっかけがあった。

自宅にしても事務所にしても
必要だけれど、どうしても取っておかなければならない紙資料が
たくさんあって、それをことごとく
ScanSnapというドキュメントスキャナーでデータ化して捨て始めたのがきっかけ。

この気になっているけれど捨てられないという後ろ髪をひっぱられていた状態から、
自分を自由にしてあげる効果は絶大だった。

どうしてもっと早く買わなかったんだろう。

すっきり掃除をすると、次にレイアウトで気に入らないところを直し始める。

このモノはココじゃないよな、と位置変えを始める。

お宮を作るような気持ちになってくる。

終わると柏手を打ちたくなる。

昔、恩師から、工場で働いていたとき、仕事を始める前に
掃除をすると聞いた。
その方が能率が上がるという。

ゴミは、護美と書く。
美しさを守るために捨てる。

世界中の人々に共通の「美」。目に見えるものも、目に見えないものも。

2010年。世界が平和でありますように。

デフレ脱出とアート

政府がデフレ宣言をしてから、ではどうやって抜け出すの?
その答えを考えていた。マクロ経済ではリフレ流行であったりするけれど、
日々仕事で結果を出さないといけない私たちにとってのデフレ対策は?

今考えている答えは、アート、芸術です。

商品のみならず、商品を伝えるということについても、サービスについても、いま重要なものはアートだと思う。

こっちの方が安いとか、ゴリゴリ計算するアポロン的な意識に対して、
ディオニソス的なエネルギーとしてアートはある。

このことに気がついてから、新宿のイシバシ楽器でシンセサイザーを衝動買いしてしまうし、小説が面白くて
ワクワクしながら本を読む楽しさを思い出している。

そんな話をお客さんともお友達とも言える方に話した。その方が京都に行かれたとき、俵屋宗達の風神雷神図おみやげ用の小さなな屏風をプレゼントしてくださった。嬉しいなあ。
私のノートパソコンはデスクトップに風神雷神図があしらわれている。そのことをご存知だったのだ。
感謝。

そして先日、阿佐谷のプラットホームに、長谷川等伯展覧会の大きな看板が立っていて、その作品に圧倒され、しばらく見とれていた。2010年2月に上野で開催される。凄い作品だった。行く予定。
安土桃山から江戸の中期にかけて、豪華絢爛な作品が登場してくる。ギラっとして凄いエネルギーをもった作品群。

そんな話を妻にしてみると、次に葛飾北斎の話になった。妻はその実際の大きさがあまりにも小さいので、驚いた、という。巨大に引き伸ばして見せても、あれだけの迫力を保っている。凄い、と。北斎は、フランスの絵画にも影響を与えている。

1年カレンダー

年末も押し迫ってくると、「1年は早いですね」と挨拶代わりに交わされることが多い。

今年は違った。

仕事場でも、自宅でも机の前に、1年カレンダーを張っている。1月から12月まで一目で見渡せる1枚のカレンダーだ。
このカレンダーを見ていると、1年のうち半分が近いとか、秋あたりになると春にはこういうことをやっていたなぁとか、1年の節目が分る。

1年が早いとは思わなくなった。

こんなにも時間の感覚が変わるものかと驚いた。

この逆は、毎日または月ごとで、大忙しの日々が続いた場合、あっと言う間に半年が経過した、というようになる。

良いと思ったものは人に話をしてしまうので、来年はお客さんや友人でこの1年カレンダーを使う人たちが出てくるだろう。
ちなみに、私は東急ハンズのカレンダー売り場で買いました。500円です。
効果を考えると、安すすぎる^^;

インフルエンザにかかって

2週間前にA型インフルエンザにかかった。
39度まで熱が上がり、お医者さんに直行してタミフルをもらった。

なんだかそれ以来、仕事のテンションが下がりまくりで、早々に切り上げては、小説ばかり読んでいる。

梶山季之著 赤いダイヤ、黒の試走車、せどり男爵数奇譚、現代悪女伝。
服部真澄 最勝王。
東野圭吾 秘密、容疑者Xの献身。
そして頭山満 幕末三舟伝。
などなど。
病気から回復に向かう間、世の中のルールからズリ落ちたような気がしたけれど
これはいっそのこと仕事はやりすぎず、気ままな生活を送ってみよう、と決めたら
面白い日常が始まった。

料理が楽しい。
4.5キロの骨付きハムが送られてきて、あまりの大きさにびっくり。
妻に見せるために写真を撮っておいて、早速、スライスにかかった。
いつもステンレス包丁しか使っていないのだけれど、仕舞ってあった有次の包丁を使った。

大きくスライスして、残った骨にはまだハムがくっついている。
さて、どうしたものかと思案していると
そうだ、スープを作ろう、と思い立った。
次に人参を切り、キャベツを切り、たまねぎも。そして、ニンニクを4つばかり大鍋に入れ
クツクツと煮込むこと3時間。
途中で味見をしてみると、これが美味い。
こんなに美味しいスープを自分で作ったのは初めてだと感心する。

妻も絶賛。
うれしい!

大鍋なので、まだまだある。

壇一雄の小説で料理が出てくるシーンを思い出す。そういえば壇さんも大量に作っていた。

10月に中国で美味い上海蟹を食べてから、変なものを食べると一日調子が悪い。
自分の体に今日は何が食べたいかを素直に聞いてから外食をすることにしている。

次にアートに触れたくなる。
突然漫画を描きたくなりスケッチブックとB鉛筆を買う。そういえば小学生のとき、少年サンデーの4コマ漫画で入賞したことを思い出す。
突然、シンセサイザーが欲しくなる。デジタルビデオカメラを買い換えたくなる。

また熊野に行きたくなる。

日本って自由だなあ、と思う。小室直樹さんが橋爪大三郎さんとの対談で語られていたのだけれど
日本人は規律のある宗教は向かない、と。だからイスラム教は日本に定着しない、と。
ついでに書くと、欧米の神は働かないけど、日本の神さまはよく働く、と。

世の中のルールを外れて見てると、人々の生活は暖かく、泣いたり笑ったりしながらも、愛しい気持ちになってくる。

あ、これ、とっても大切だなあと実感。

デフレ宣言しても。。。

デフレ宣言しても。。。

政府がついにデフレ宣言してしまった。2008年9月から何とかインフレに持って行こうという政策が、功を奏さず、アメリカを始めとする国債ジャブジャブ発行で持たせているけれど、潜在的には、カンフル剤にしか過ぎないことを感知している。
しかし何もやらなければもっとひどいという現実もある。
1929年の大恐慌の際は、始めの1年でガクッと下げ、翌年そして翌々年、また永遠に景気の良さを謳歌できるかと思った矢先、さらなる下げに突入し、6-7年続いたという歴史がある。

資本主義は内部にバブルと恐慌を内蔵している。

資本主義の未来が、いくつかのパースペクティブで語られ、
中国、インド、ブラジルなどBIRICsの中産階級の内需拡大を資本主義の次の巨大マーケットとして見ている、とか
環境、安全、健康のテーマがより重要になる、などいろいろある訳だけれど、
その前に、今までの土台と例えば給与ベースが崩壊しつつあるので
多くの人たちが大変な事態に直面することも確かであり、今回、行くところまで行くことになる。

以前、ある相場師の方から聞いたこと、
相場の世界には、まるで神が宿っているかのようだと。

売った買ったのを繰り返していても、長い目で見れば
お釈迦様の手の内のようなもので
その中で遊んでいるだけなのかもしれないというような意味だ。

つまり、なるようにしかならない、ということでもあり、
究極はエリートと呼ばれる人たちが、政策で何とかしようともがいても
結果は何ともならず、世界は自然治癒力に任せるしかない、というものだ。

当たっていると思う。

元は、地球があり、自然があり、そして、人間が生きているという元を考えてみると
自然は必ずバランスを取ってくるので、
欲にかられた金融業界の人間たちが作り上げてきたシステムが崩壊するだけの話であって
何も私たちまで一緒になって壊れることは無い!と最近強く思う。

言い方を変えると、
地球は怒っているぞ、自然は、人間たちよ、いい加減にしろ、と叫んでいるように思う。

白人は、自然に対しての恐怖が根っこにあるので、自然に対して戦うのだが、
日本人のアニミズム感は、全く異なる。

料理、そして日本人

金曜はいつも母と定例の夕食会となっており、久しぶりに阿佐谷でお気に入りのレストラン・「グルトン」に出かけた。
10人ほどしか入れないので、こじんまりとした良い店だ。
オードブルのサーモン、メインディッシュの牛ホホシチューは、いつもながら美味しく、ボルシチスープが体にしみわたる。
コースで4000円だけど、阿佐谷の穴場だと思う。ランチは1300円ほど。

2回目も行きたいなあと思うレストランは、1~2割だろうか。阿佐谷ではグルトンとオザワが残った。

グルトンのシチューは、恵比寿のキッチンボンと良い勝負。

キッチンボンは、レンガづくりの時代から知っていて、あそこも美味い。20代の頃で先輩に連れていってもらい、なんて美味しいシチューなんだろうと感動した。

最近、これは美味い!の感動ものが、「焼きあごふりだし」。まるも(株)で販売されているこの商品をお客さんからいただいた。

出汁だけで飲めるほど美味い。

10代20代の人たちが、体の人間を訴えているのは、ファーストフードが中心の食生活に影響があるだろう。たぶん食生活がひどい。

私は、この夏から、朝はニンジン・りんごジュース、昼はそばくらい、そして夜はしっかり食べるという食生活をしている。
いろいろと調べてみるに、食べ過ぎほど健康に悪いものはなく、美味しいものは少し食べると満足する。ファーストフードやコンビニ弁当は、食育の元を外しているため、体の満足感がないだろう。

よく言われることだけれど、人間の遺伝子は、飢餓状態に強く、食べ過ぎには弱い。

体が求める美味しい料理を食べることほど大切なことは無いのだけれど、体と命の欲求を分からなくなってしまっている人たちも多い。
頭で考えると、○○を食べなくちゃ、となるけれど、体が要求しているものは違うことがある。

意識のレベルではわからないことを、体は正直に訴えており、その声は時に、SOSだったりする。
命は先に生きよう生きようとしているけれど、意識でおかしなことをやってしまうと、結果として病気になる。

5年ほど前に1週間の断食をやった。水はOK、塩分は×。8kg体重が減り、そして今も変わらない。一度、リセットしないと分からないことも多い。

そして、掃除。要らないものはさっさと捨てて空間をきれいにする。

日本人の文化的な真髄は、引き算にある。

全部無くして、そこから生まれてくるもの。茶道も然り。何も無いところから生まれてくる。
それは個人がどうのこうのではなく、自然と調和した命の美しい空間が拡がりだす。

分断された意識では捉えきれない生命の躍動。

日本人はまだ自分たちのことを知らないと思う。

中国について

以前、中国に行ったのは、1988年で天安門の前年だった。あまりにも長い間ご無沙汰してしまった国に、久しぶりに行ってみようとチケットを予約した。

国内旅行の金額と変わらないのに驚く。4つ星ホテルがこんな金額で泊まれるの?と、これまたびっくり。上海にした。

風邪を引かない限り、行く予定。

中国の将来について、悲観的な意見と楽観的な意見と入り混じってるのも気になっていた。
確かに30年から40年経ったとき、少子化問題で国力は衰亡することが目に見えているけれど、この二つの意見は、悲観的な意見は、例えば大竹慎一氏、松藤民輔氏などで読んでいた。大衆社会が成立していない、とか、中央集権では持たないという意見で、次の楽観的というか、中国の将来を明るくとらえる意見としては、これはかなりあり、アメリカの覇権交代説を唱える人たちも、アジアブロックの中枢として中国の将来を見ている。

中国との関係は、これからが蜜月になるだろう。胡錦濤・温家宝は、周恩来・トウ小平につながるラインであり、次の次の世代である李克強もその流れにある。周恩来&田中角栄を日中国交回復を始まりとして、田中角栄~小沢一郎へとつながる世代は、現中国政権との交流を促進するだろう。
中国からのオファーは、環境問題の協力や、新しい新幹線など、目白押しとなっている。

ただ、中国の失業率は一説には25%と言われ、都市部に来た労働者が農村に戻っているとも聞く。アメリカへの輸出が激減したのが主な原因だろう。
あと、3年半耐えたら、これは最近の合い言葉なのだけれど、日本とはさらに良い関係が生まれるだろう。

中国とアメリカは、実はテーブルの下でピストルをつきつけている関係。89年の天安門事件は、当時のゴルバチョフが来中している間に起こった事件で、世界中のメディアが集まっている中で起こっている。そして、アメリカの多国籍企業が中国へ入り込んでいく。

濃いも薄いも甘いも辛いも知っていたトウ小平が、胡錦濤・温家宝を育てながら、次の道をつくり、今がある。彼らは、全部知っている。

アメリカの外交政策は、日本と中国が仲良くすることを徹底的に排除してきた。そして、今年の夏から、大きな転換を迎えている。

アメリカは、2012年を底として、2013年から回復できるかどうかにかかるだろう。それまでに暴落する国債、株、暴騰するvs米ドルとしての金(ゴールド)、こういう事態にオバマであっても誰であったも為すすべがないのだが、世界全体としては、凋落する旧大国が危機に陥ったとき、金利を上げることによって(90年代後半、韓国がデフォルトしたときにIMFが高金利政策を取らせた同じ方法で)、世界から再度資金が流れ込むかどうか、そして息を吹き返すかどうかにかかるだろう。しかしながら、この方法は、韓国の場合がそうであったように、犠牲を伴う。借金を負った層、そして低所得層が犠牲になり、セーフティーネットが無い限り、大変なことになるだろう。

凄い時代に生きている。

一神教と多神教

このところ、一神教と多神教について考えることが多かった。

昨秋、C・G・ユングの「ヨブへの答え」を読んだ。林道義氏が10年かけて訳したこの著作は、ユングの著作の中でも最高傑作とも言われている。
昔、キリスト教に対して距離を置いていたのだが、整理する大きな転換点になった。
高校時代に遠藤周作氏の「沈黙」を読み、その後、アンドレ・ジッドの「狭き門」を読むという読書体験が、高校生の私には、それ以上探求をするには、ナビゲーターが必要だったが、自分の周りには居なかったのが理由だった。

ちなみに、遠藤周作氏がヨーロッパで著名な日本人作家としての地位を築いたのは、この「沈黙」が与えた影響からだろう。

旧約聖書に登場するヨブ記では、トリックスターであるサタンにそれほどまでに神への信仰が強いのならば、試してみればと神がそそのかされる。神であるヤーヴェに従順なヨブは、その結果、子供まで殺され、治らぬ病いを患い、それでも神への信仰を捨てないでいる。ヤーヴェは残酷にして慈悲深く、現象そのものであって、「人にあらず」である。この道徳すらないヤーヴェの二重性(神の無意識の矛盾)に対決するヨブが、その二重性を認識することによって変化が起こる。ヨブの認識、智恵(ソフィア)によって、ヤーヴェは変わらざるを得なくなる。それは神が人間になるということであった。これは相手が分かったと同時に、自分も分かるという同時変化が、天上界において起こる。

ユングの言葉を借りると、「ソフィアの接近は新しい創造行為を意味している。しかしこのたびは世界が変えられるのではなく、神が自らの本質を変えようとするのである。人類は前のように滅ぼされることになるのではなく、救われることになるのである。この決断には、人間を愛するソフィアの影響が認められる。つまりつくられるのは人間ではなく、人間を救うためのただ一人の神人である。この目的のためには創世記とは逆の手続きが使われる。男性である第二のアダム(キリスト)は最初の人間として直接創造主の手からもたらされたのではなく、人間の女性が(マリア)から生まれるのである。 
(中略) 
こうした見解はなるほどマリアの人格が男性的な意味で高められることを意味している、と言うのは彼女はキリストの完全性に近づけられているからである。しかしそれは同時にまた完全性ないし十全性という女性的な原理が病んでいることも意味している、と言うのはこの女性的な原理が完全主義化によって、マリアをかろうじてキリストから区別するぎりぎりのところにまで縮小されてしまうからである 太陽に近づくほど光が薄れる! こうして女性的理想が男性的にその方向へねじ曲げられていけばいくほど、女性は完全性を目指す男性的な努力を保証する可能性を失い、ついには後に見るようにエナンティオドロミー(訳注より、ユングはあまりのも一面的になりすぎると、無意識の中に逆の方向性が強まり、その作用によってやがて意識の在り方が逆転するという意味で使っている。)によって脅かされる男性的理想状態が生まれてしまう。完全性を通っていく道は未来に通じていない。たとえ通じても、逆転、すなわち理想の破綻になる。その破綻は十全性という女性的理想によれば避けることができるであろう。ヤーヴェ的な完全主義は旧約聖書から新約聖書と受け継がれ、たとえ女性的原理が大いに認められ高められたとはいえ、家父長的支配には勝てなかった。」

旧約聖書から新約聖書に至るヤーヴェからキリストの物語は、まだ続く。このように女性原理をしぶしぶながら完全性の中に取り入れて認めながらも、家父長的支配を続ける結果、無意識のうちに育まれている否定的感情の爆発、つまり抑制させられた裏側で生じる対立物として、ヨハネの黙示録が位置づけられる。
ヨハネの黙示録では、七つの封印が開かれることによって、「こうして、キリスト教の現存、忍耐、隣人愛や敵への愛、また天にまします愛の父とか人間を救う息子や救世主いった、あらゆるイメージの横つらを張りとばすような、おぞましい光景が生まれるのである。 中略 ついに7番目の天使がラッパを吹く鳴らすと、エルサレムが破壊された後に、天上に、足の下に月を踏み頭に十二の星の冠をかぶった太陽の女が現れる。彼女が産みの苦しみの中にあり、彼女の前には火のように赤い竜がいて、彼女が生む子供を食おうとしている。」
この封印が開かれるとは、「彼女とは、女性本来の十全性を奪い取られていない女性の原人であり、男性の原人としての対」である。

キリスト教がこのように十全性を持つ女性性を男性原理である完全性のもとに位置づけ片翼飛行をしている宗教だ考えると、世界の限界状況にもつながる理解ともなり、ユングの「ヨブへの答え」は、イリイチのジェンダー論とはまた違う、壮大なユダヤ・キリスト教とそのロゴスの歴史という観点からジェンダーを捉える画期的な試みだと言える。
このような試みが可能になったのは、エディプス還元主義のフロイトと決別したユングの、男性性と女性性の深淵を語ることができた天才性に拠るのは確かだ。もちろん引用は一部であり、エノクや各福音書も登場するので、読まれることをお勧めする。

さて、そんなふうにユダヤ・キリスト教を代表とする一神教への整理と理解をしたところ、多神教に想いを馳せていた頃、といっても数週間ほど前だが、町田宗鳳氏の「人類は宗教に勝てるか 一神教文明の終焉」を読んだ。

この「人類は宗教に勝てるか 一神教文明の終焉」は、多神教的コスモロジーの復活、無神教的コスモロジー(決してマルクスの言う無神論ではない)の時代へ、と展開され、現在の世界にとってとても重要なテーゼとなっている。長くなるので、一読をお勧めする。
いずれにしても一神教が限界にきているのはゆがめない。

町田氏は、法然を調べていて知った方だ。法然に関する重要な著作を出されている。

なぜ、町田氏が法然を取り上げたのか、分かるような気がする。法然には50年に一度、天皇が新しい諡号を与える。今は和順だ。鎌倉期の仏教膨張期の前に位置する法然は、親鸞、日蓮、道元など鎌倉期のスターが登場する以前の土台を作っている。それも、世の中が飢饉と不安で動乱する京都末期にあって。

日本に登場する天才たちは、薄氷の上を歩み続ける世界の危なさに対して、さまざまな警告とヒントを与えている。また古事記を読むと、国の成り立ちが、いかに平和であるかよく分かる。イサナミとイサナギが、二人で仲良く作り上げた国で、しかも悪い神が出てこないのだから。出ても八岐大蛇であるけれど、尻尾からは三種の神器のひとつである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)が出てくる。

私たちは、世界の中でいかに重要な国に住んでいるか、その意味を分かっていないのは、当の日本人であるのかもしれない。

熊坂武術院

4年ほど前、左の手首から肘にかけて痛みが走るようになった。さすがに我慢できないレベルに達して病院に行った。
整形外科の先生は、ベンツでも長い間乗ると故障が出るように、あなたの手首も医学的には亜脱臼を起こしたのですよ、と診断された。しかし、その後の話が酷だった。サポーターを巻いたとしても限度があるでしょう、いずれ手術しかありません、金属を入れて固定する方法です、という内容だった。
焦った。
仕事柄キーボードを打つことが多い。スタッフに任せることは可能だが、やはり自分で打ちたい。
WEBで何か方法はないものかと探しまくった。

宇都宮に会津藩の関節治しの秘伝を受け継ぐ熊坂先生という方を発見し、電話をした。
あっさりと「元に戻らないと仕方がないでしょう」と言われ、新幹線で飛んでいった。
宇都宮からタクシーで1メーターほどの距離にある熊坂武術院は、畳12畳ほどの簡素な空間だった。薄い敷布団の上に寝かされて、痛んだ手首をゆっくりと回すようにして関節を治療する。先生は関節が元の場所に収まるように具合を感じながら回している。
3~4分経ったころ、「もう大丈夫でしょう」と言われた。
自分で手首を回してみると、今までの痛みが、まったく無い。

驚いた。感謝感激雨あられとはこのことだ。

もし、あのまま整形外科の先生で手術をしていたらと考えると、ゾッとする。

今まで西洋医学が対症療法であるということは知識として持っていたが、自分の体を持ってその違いを分かった。原因を突き止めるには、西洋医学のアプローチは欠かせないとしても、治療方法には選択肢があると痛感した。
(その後、痛風で苦しんでいた叔父を連れて行ったが、西洋医学で痛風だと判明しないでいったため、結果的にはダメだった。これは、事前に原因を突き止めていないことによる。亜脱臼の治療は素晴らしい技術をお持ちである。)

友人や仕事上のお客さんにも話したところ、10人ばかり行くことになり、少しは恩返しができたかもしれない。

少し変わった先生だ。治療中でも禅の話が始まると、止まらない。部屋の片隅には、道元の「正法眼蔵」が置いてある。

3ヶ月ほど前、ジムで無茶をやり、膝を痛めたようだったので、伺った。お弟子さんが2人居た。

心臓が弱っているとおっしゃている。長生きしてほしい。

2019年本を監修された。「奥伝の関節医学 継承者「熊坂護」の手技とその歩み」