日本について

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高橋克彦著「火怨」を読む

土曜日, 11月 12th, 2011

高橋克彦著「火怨」を読む。
上下二巻。
凄い。東北を理解するためには必須の本だと思う。

縄文の息吹があふれている。

東北は縄文後期にあたるが、中期は諏訪を中心としている。
高校の同級生が縄文土器の撮影をライフワークとしており
話を聞いた。

ともに諏訪を訪れた際、八ヶ岳での縄文人の話になった。
当時、火山活動がまだ続いていたにもかかわらず、縄文人の生活地域が、火へ向かっている。

もちろん暖を取るためではない。自然との対決でもない。
彼らをそのような行動へと向かわせた何か。

「火怨」を読むと、その何かが理解できる。

あまり書きすぎると本が読まれなくなるので、やめる。

中期に生まれた火炎式土器と高度な文明は、縄文人の何かを凝縮しており、日本の古層に流れる豊かなエネルギーとして今もある。

中身を紹介しないと書いたが、一カ所だけ。

アテルイが物部の二風に聞く。
「アラハバキとは何の神でござりまする」
答えて曰く
「陸奥とはあまり縁のない神。むしろ蝦夷にとっては敵に当たる。出雲に暮らしていた蝦夷の祖先を滅ぼした神じゃ。その須佐之男命が出雲の民より神剣を奪った。草薙の剣と申してな・・・別名をアメノハバキリの剣という」

「古事記」では、須佐之男命がヤマタノオロチを退治した結果、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ。草薙の剣の別名)を得て、天照御大神に献上する。
これで「古事記」を再読する必要が出てくることが、お分かりになるだろう。
オロチ=蛇は、縄文の神もであった。
脱皮して生成変化するその生命力に縄文人が畏敬の念をもっていたことは
柳田民俗学に異をとなえ独自の研究を深めている吉野裕子「蛇」に詳しい。

古層の上に幾層もの文化が重ね合わされているが、
日本人の持っている変わる力は変わらない。

実体語と空体語について

金曜日, 6月 4th, 2010

実体語と空体語は、故山本七平氏が提唱した日本分析のキーワードである。日本国民は常に、この二つの極を行ったり来たりしてコントロールされてきたと述べている。

実体語と空体語を具体的に紹介することにしよう。(「日本教の社会学」山本七平&小室直樹対談より)
「モデルとして太平洋戦争末期をとりあげてみましょう。あの頃、無条件降伏という実体語があれば、一億玉砕という空体語でバランスをとっているわけで、その空体語がないともう何も機能しない。

ところが、一億玉砕というのは極限ですね。どうもできませんね、これ以上は。これ以上もう空体語を積めなくなる。

~中略~

実体語の方が重くなると、空体語の方をどんどん増やすわけですよ。だからこの表現はどんどん上がっていって、降伏直前には一億玉砕まで上がっていく。それが極限まで行っちゃうと、もう方法がない。もう空体語を重くできない。

これ以上重くできないとバランスが崩れて、実体語の方が上っちゃう。こうなると困るから、今度は支点を空体語の方に寄せていく。それも極限までくると、もうバランスがとれないから一回転してストンと両方落ちちゃう。そうすると、次の瞬間は何もなくて、天秤の支点は真ん中にあって、実もなければ空もない、自然的虚脱状態に立つ人間がいるだけ。

次にそれを機能させようと思うと、空体語の方に、民主主義でも何でも、いっぱい積んでくるんです。そうするとこれはバランスを取るために実体語の方に事実を積んで行かなくちゃならんでしょう。

これは安保だってそうです。しまいに空体語を積み切れなくなる。また、天秤の支点を動かしていく。また極限までくるとガチャンとひっくり返る。その瞬間にまず全部言葉を失う。たえずこれを繰り返しているわけです。(P142-144)」

実体語は現実に即した言葉となり、空体語は現実の枠組みから解き放たれようとする言葉となる。

実体語と空体語は日本の社会分析のキーワードとしてあるのだけれど、ミクロの生活においても適応する。

たとえば生活においても現実のしがらみだけが重苦しくなったとき、空体語が必要となる。また空体語が重くなりすぎて、がんじがらめになったとき、現実が必要であると揺り戻される。支点は生活者になる。

社会分析を行う上で実体語と空体語は、日本を包む全体の空気(空気認識)がベースとなっている。

KY(空気が読めない)が流行語になったが、この空気は、今はそんな空気じゃないよね、とか、今は行ける空気でしょう、など判断の基準に用いられる日本の不思議な社会認識で、大衆心理の仮想空間として存在しあたかも実体を持った基準のように機能していく。
実体語と空体語は、その空気という空間の両極で揺れ動く心理特性である。

そしてこうも言える。
空気が片方の極に寄っているときに、その失敗を突いて、逆の極情報を操作して流すわけだ。
日本人は善良な国民なので、この手法でコロリとやられる。

先ずは全体を認識すると抜けられるだろう。

クリス・アンダーソン著「フリー」、そして日本

木曜日, 5月 27th, 2010

友達からクリス・アンダーソンの「フリー」という著作を紹介してもらい読んでみた。クリス・アンダーソンは、雑誌「ワイアード」の編集長であり、Longtail(ロングテイル)という概念の発案者で知られている。

情報を自由になりたがる、この言葉を知ったのは、MITメディアラボという著作の中でニコラス・ネグロポンティが使っていたのだが、「フリー」によると、MITのサークルで使われたのが始めらしい。このことが情報の本質として、フリーの概念につながるわけだが、シュンペーターの創造的破壊を思い出した。

創造的破壊は、シュンペーター流のイノベーションであるが、古いものを壊す新陳代謝が企業には必要であり、細かなマイナーチェンジではなく、バッサリ大きな変革を伴うイノベーションを言う。

本の中ではGoogleやLinuxをはじめ、さまざまな例が紹介されている。
さて、日本は日本という共同体的マーケットの中で飯が食えてしまうところがあるので、「フリー」の概念は馴染みが薄いかもしれない。しかしながら、私たちはGoogleを使い、WEBサーバはLinuxで走っているし、30歳未満の人たちは既に無料に慣れっこになったマーケットが出現している。特にデジタルの世界では顕著で、日本だけが鎖国をしている訳にはいかないので、積極的に取り入れる新しいイノベーションとしてある。

日本という共同体的マーケットの常識は、高い賃金体系があって始めて成り立つものなのだろう。(近年、格差が進んで崩れているが、アメリカの平均年収は300万弱である。その代わり不動産、公共料金などが安く社会資本が充実している)

日本はモノづくりが非常に優秀な国なのだが、販売・マーケティング力の弱いことが知られている。近年の中国、インドを中心としたアジアの中産階級層の出現に対しても、液晶分野で言うと韓国のサムソンに負けっぱなしである。サムソンが何をやってるかというと、日本の製品を分解して必要なものと必要でないものを選別して研究し、アジアの巨大マーケットに低価格で販売しているのが実態である。そしてサムソンは1990年代のデフレに喘いだ日本企業(特に東芝)から半導体技術者を数百人単位を採用し技術を確立したところがある。

日本は今までモノづくりに自信を持っていたが、高い付加価値の製品はどうしても高額になり、欧米を中心とした輸出先が必要であった。この欧米がリーマン以降、消費力としてコケてしまっているのである。

2002年から2007年までの平成いざなぎ景気は、小泉・竹中政権が莫大な予算を使った(30兆)円安政策とアメリカへの車などを中心とした輸出で作られたものだった。ちなみに1995年の円高対策は、6兆円ほどである。いかに莫大な金額が将来を見通さない戦略であったのかが分かる。結果、先進諸国のなかで日本だけが立ち直れない理由もここにあり、創造的破壊が進まなかった訳だ。

フリーは、マーケットへのリーチにかかわる。どこまで到達するかというその可能性を極限まで進める手法として使われている。複雑系の分野で、収穫逓増という概念があり、近い考え方になる。収穫逓増は、あるマーケットをどこまでも独り勝ちする。マイクロソフトが例としてよく使われる。
さて、この日本にも「フリー」は浸透し、いやがおうにもマーケットの賛同を得て、グローバルな形で入ってくる。
グローバルという言葉は、ある意味、地球上のどこまでも伸びていく侵食性を示しており、本来は戦いになる。食うか食われるかの。
日本発の「フリー」で有名なのは、携帯のOSで使われている「トロン(Tron)」が有名だ。
日本のPCはOSをトロンにしよう、というムーブメントがあったのだが、ソフトバンクの孫正義がマイクロソフトとタッグを組んで、これを潰した。
日本はTronを全世界に無料配布する予定で、日本中の技術者がメーカー間の垣根を越えて出来上がったソフトだった。
と言いつつも、携帯でTronは使われており、多分、windowsを越える数が使われているはず。隠れたところで世界的に浸透している。
ソフトバンクの事業戦術は、このフリーを押さえているなあ。YAHOOブロードバンドのADSLモデム配布、家族無料通話、あるマーケット規模までリーチした後の損益分岐点をはじいて、それまでは借金してでも浸透させるという方法なのだろう。
まあ、先進諸国の間でも格安のブロードバンド料金の恩恵は受けている訳だが。。。確かにNTTだけだったら、こんなわけにはいかない。

日本の良さは、サービスの良さ、モノにづくりへの信頼があるが、このフリーを前にしてどう闘うのかがはっきりしていない。iPadも発売される。本の物量に対してハードディスクは「フリー」に近い。どれくらい入るんだろう?日本の出版社は大変な状況に陥るだろうが、適応しなければ生きていけない。

どう見ても日本は出遅れているのである。
デジタルの分野でアメリカに追いつき、アジア諸国に対してディスカウント対抗しても、所詮はつけ刃。日本は、世界の中でのマーケットポジションが危ないのである。

国内マーケットでも低所得層を対象にしないと事業にならない状況が訪れている。よく高額所得者をターゲットに、と言うマーケティング・アナリストがいるが、間違いである。現在は低所得者層に移っている。そこでもフリーは活きてくる。

しかし、フリーはひとつの手法。手法は何でも取り入れれば良い。ただし、手法は全てではない。

さて、昨日、日本人は何に優れているのだろう?と考えていたところ、複雑なことをシンプルにできる能力ではないだろうかと思った。

複雑なことを複雑なままにしておけない民族というか、そこは特別な能力があると思う。西田幾多郎を読んでいて、そう考え出した。

欧米では発案できないようなことを、日本で発案できるのは何故か?
その答えを探すために、日本の哲学者の著作を読んでいた。

考える対象と自分との境界が無く、一体となって考えていくところにその秘密はあるのだが、欧米の場合、「有」から始まっているのに対して、「無」から始まる。
「有」から始まるというのは、自分の意識と対象が分かれて分析の対象になるということでもあり、古くはアリストテレスにまで戻る。形相と質料を分けたところまで。
「無」から始まることで対象と一体化しているため、アプローチがまったく異なる。複雑に分岐したことでも、ひとつのこととして考え続ける特性がある。
その前提には、何かを良くしようとする意志の力があり、複雑なことでも何とかみんなのためにならないだろうかと考え続けることで、ある日、ふっと答えが出るようなもの。
そんな能力が日本人にはある。

そしてチームワークが良い。だから、例え上司であっても忌憚なくモノを言うほうが良い。

本田宗一郎さんが或るホンダの工場に行ったとき、白ツナギを着てポケットに手をつっこんでいた。一人の工員さんに叱られた。「ポケットに手を突っ込んでいて危ない」と。それをそばで聞いていた中間管理職の人が、その工員さんに、「社長に何てことを言うのか」と叱ったところ、さすが、本田さん、こんなに仕事熱心な人間を何故怒るのか、と逆に中間管理職の社員を叱り、そして、ホンダの工場で働く工員さんたちの白ツナギからすべてポケットが消えることになった。宗一郎さんがアメリカホンダの工場に始めて行ったとき、当たり前のようにして白ツナギを着て工場に行った。アメリカ人の社長はこんなことは決してしないし、階層社会なのである。アメリカで労働争議が嵐のように起こった中でも、ホンダには起こらなかった。良い会社とはこういうものだ。

日本が世界に対して誇れる国であるためには。
先ずは、内面を取り戻し、活力を取り戻すこと。

精神を無くした国は滅びる。これ、歴史の必然。

そして、すべての人間には、この世で生きている限り、使命がある。

酢からス、そして日本

火曜日, 5月 18th, 2010

今日の夜は、手羽先、ごぼう、ねぎの煮込み料理を作る。

手羽先は先を切り、軽く炒め、だし汁をベースに、ごぼうとねぎを入れ、クツクツと煮込むこと1時間弱。
みりんと醤油、黒砂糖で味付けし、一番最後に酢で仕上げた。
そして、春の山菜、こごみを料理。
今日の煮込みは、かなり良い出来。

酢の使い方で、料理は良くなる。
広がるというか、統一感が出て絶妙な味のバランスを引き出すことができる。

人を好きになるの、「スキ」という声もスとキの組み合わせで、あるエネルギーが向かうことを示しているし、人がスッと出てくる、というときの「ス」も静かながらエネルギーを秘めて登場してくる感じが出ている。

言霊の世界は、芸術において、能がよく表現していると思う。
能の世界は、その根源を縄文の世界にまで辿ることができるので、言霊は、縄文のエネルギーに満ちた生命の内奥から発せられる響きから来た世界なのだろう。
縄文人は、つま先でスッスッと歩いた。現代でもスは生きている。

世阿弥の「花伝書」は、この奥儀を説いた日本最高の芸術論としてあり、世阿弥、そして父の観阿弥にとっても、言霊の世界は、当たり前の世界としてあったのだろう。
花は、開く前の蕾の状態に、秘めたる美しさを観て、その感応は、潜象の世界で通じている。

この休日、井筒俊彦氏の「意識と本質」「存在論から意識論へ」を読んでいたのだが、明治以降の捉え方を、後記で書いておられた。

「特に、明治以来、一途に欧化の道を驀進してきた我々日本人の場合、その意識—少なくとも意識表層—は、もはや後には引けないほど西洋化しているのだ。ほとんどそれと自覚することなしに、我々は西洋的思考で物事を考える習慣を身につけてしまっている。つまり、ごく普通の状態において、現代の日本人のものの考え方は、著しく欧米脈化しているし、まして哲学ともなれば、既に受けた西洋的学問の薫陶が、それを別に意図しなくとも、我々の知性の働きを根本的に色付ける。
だが、他方、日本語によって存在を秩序付け、日本語特有の意味文節の網目を通して物事を考え、物事を感受し、日本語的意味形象の構成する世界を「現実」としてそこに生きる我々が、心の底まで完全に欧化されてしまうことはあり得ない。ということは、要するに、我々現代の日本人の実存そのものの中に、意識の表層と深層とを二つの軸として、西洋と東洋とが微妙な形で混交し融合しているということだ。
~中略~
東と西との哲学的かかわりというこの問題については、私自身、かつては比較哲学の可能性を探ろうとしたこともあった。だが実は、ことさらに東と西とを比較しなくとも、現代に生きる日本人が、東洋哲学的主題を取り上げて、それを現代的意識の地平において考究しさえすれば、もうそれだけで既に東西思想の出会いが実存的体験の場で生起し、東西的視点の交差、つまりは一種の東西比較哲学がひとりでに成立してしまうのだ。」

東洋哲学研究の世界的大家である井筒俊彦氏は、着物姿で写っている写真が多く、東西的視点の交差を自身の存在で現出させている稀有な日本人であり、自らを語らなかったが、実は日本のことを深く深く案じていたように私には思える。東洋のみならず、西洋哲学にも探求が深く、縦横無尽だが極めて正確に東西を語り、共時的構造化として深層を掘り起こしてみせるその存在に、「ス」のちからを感じた。

日本について 5月4日

火曜日, 5月 4th, 2010

自分の不勉強を反省し、ゴールデンウィークで本のまとめ読み。

・「天皇の原理」小室直樹著
日本の天皇制がどういう変遷をたどったか知るために読む。

・「異形の王権」網野善彦著
網野史学の中で南北朝期の後醍醐天皇がどう語られているかを知るために読む。

・「日米開戦の真実」佐藤優著
大戦直後、右翼の代表的知性だった大川周明のNHK講演。

・「日本教の社会科学」小室直樹&山本七平対談
小室直樹氏の盟友であった山本七平氏を始めて読む。

・「ナショナリズムの克服」姜尚中&森巣博対談

・「愛国の作法」姜尚中著
国体ナショナリズムの批判を読むため。

・「挑発する知」宮台真司&姜尚中対談
参考になったが、2004年で状況が少し古いかも。

・「日本政治思想史研究」丸山真男著
日本の政治思想を語る上での定番。

まるでヤミ鍋のようにドカドカ入れて、最後は自分の中でどう消化するかというところ。

今日の段階でいうと、ナショナリズム関連の本は、出来るだけたくさん読んで現在どんな議論が展開されているのか知っておいた方が良いというのが感想。

天皇の歴史的変遷については、学校でも深くは学ばなかったので、簡単に紹介。

平安時代の天皇は、ご飯も食べ(当たり前か)、恋愛もし、歌を詠む普通の人。
しかし鎌倉時代に入り、源頼朝死後、奥さんだった北条政子が配下の武士に仕切り直しをする。それは朝廷に対しては絶対的畏敬の念をもって接していたわけだが、朝廷を選ぶか、幕府を選ぶか、この二者択一を迫るというもの。
皆のもの、頼朝に世話になっただろう、朝廷をとるが幕府をとるか、この場ではっきりせい!と。

これで天皇の位置づけが180度転換する。承久の乱。

それまで天皇の言葉は絶対で、予定調和説。どんなことでも天皇がおっしゃるわけだからそれは神の言葉、という位置づけが、どんどん変わっていく。
天皇はどんな良いことをするのか、という善政主義に変わる。
その後北条氏は、ワイロやいろんな乱れで凋落し、朝廷は後醍醐天皇の時代。
朝廷と幕府の対立が北朝と南朝の分裂を生み、天皇が二人存在するという状況。天皇が天皇であるために必要となる三種の神器は南朝にある。当時の南朝の参謀、北畠親房が、偽りの三種の神器を北朝に渡したため。
平安期に天皇のお供ではべっていた人たち、(網野史学では、後世の被差別人、非人、遊女のルーツがそういう人たちであった)そいういう人たちや、漂白の民をたばね、そして楠木正成や新田義貞などの名武将が中心となり、総力戦をかけ、南朝が権力を奪取する。
しかし、その後、味方だった足利高氏に裏切られて、転覆。
このあたりは「異形の王権」に詳しい。

その後、三種の神器を北朝に渡し、統一を見る。北朝と南朝が交代で朝廷を担当するという約束は守られず、南朝はそのまま衰退。従って、三種の神器が存在する今の天皇家は、北朝の系統。

さて、次は、江戸時代に入る。北朝と軟調はどちらか正統?この論争が再燃。
以下、「天皇の原理」より引用。
この大論争は、徳川時代を通じて激しく闘わされ、余波は明治から昭和初年にまでも及ぶ。この大論争の争点の一つは、南北朝のいずれか正統であるか。もう一つの争点は、建武中興は何故、失敗したか。徳川時代を通じて、大論争が繰り広げられていった。そして、この大論争の過程を通じて、承久の乱で死んだ天皇イデオロギーは復活してゆくのであった。(この論争は崎門学(きもんがく)を中心になされ、創始者の山崎闇斎の弟子が浅見絧斎。)
天皇は神である。天皇が正しいことをするのではない。天皇がすることだから正しい。これが、天皇イデオロギーの教議。この教義が復活した。復活することによって、天皇は「真の神」となった。(天皇の原理 P297-298)

この流れで明治維新まで一直線。ご存知、尊王攘夷。

さて、海外では1800年代も、列強の帝国主義時代。東インド会社でしこたま儲けたイギリスは、インドでアヘンを作らせて、中国の絹・綿織物の支払いに充てている。麻薬づけになって怒った中国は戦うが、軍事力で敗北。中国の植民地化が一気に進む。
日本は、日清・日露戦争でウカレ気分。
前提は人口の膨張と近代化、帝国主義。

満州事変から大戦へ。大戦直後、NHKラジオで放送された大川周明の講演が、「日米開戦の真実」佐藤優著に収められている。何が語られているかは、読んでいただくとして、大川周明は、当時日本の最高知性とされ、出版されたその講演は大ベストセラー。大戦はすでに始まっているわけだが、植民地化されたインド中国を救済するというのが大義名分。国体という言葉はここでも使われる。大川周明は、東京裁判で、東条英機の頭を後ろの席からスリッパで叩いたり、パジャマ姿で登場したことは有名。佐藤氏は、裁判をコメディー化することで、その有効性を白紙にしようとしたのではないだろうかと分析。

さて、ここで見ておいたほうがいいのは大戦中の矛盾。
熱烈なる国体賛同兵士は、戦争が近代戦となっているため、本当に必要な兵の資質ではなかったこと、実際の戦争において目的と手段が入れ替わり、よくある精神がなっとらん!=体罰なんて当たり前。統帥権が独り歩きし、学徒動員、一億総玉砕、はては人間魚雷と命が犠牲になっていったことは常識。

佐藤氏は「日米開戦の真実」で、大川周明の講演を文章として紹介することで、考える機会を提供しようとしているのだろう。

戦後、国体ナショナリズムをどう捉えなおすかが日本の知識人の使命。でないと同じことがまた起こる。また同時に、大戦後、タイやマレーシアの首相から、大戦当初イギリスを破ってくれた自立の自信を与えてくれたと感謝するメッセージも発信されている。(「日本国民に告ぐ」小室直樹 P264)

さて、次に姜 尚中氏「愛国の作法」を読む。

以下ポイントとなっているところを引用。
近代国家としての国民国家を考えるとき、国民を「エトノス」という感性的な存在とみなすのか、それとも「デーモス」という「作為」(社会契約)によって成立する意志的結合体とみなすのか、そのどちらかによって国家のあり方、つまり「国格」も変わってこざるを得ません。
両者は図式的にいうと、「エトノス」-「(感性的)自然」-「血」-「民族共同体」と、
「デーモス」-「(意志的)作為」-「契約」-「国民共同体の二つの系列に整理できます。
これ納得。
丸山真男の「軍国日本」のファシズム的な「ヒステリー症状」は、フロムの言葉に意訳すると、攻撃的なサディズム的性格よりもむしろ、マゾヒズム的な側面に起因しているということです。
丸山真男の捉えかたをフロムの言葉を借りて紹介している。
以下引用
(マゾヒズム的努力の-著者の注)もう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、一層力強い全体の部分となり、それに没入し、参加しようとする試みである。その力は個人でも、制度でも、神でも、国家でも、両親でも、あるいは肉体的調整でも、何でも良い。揺るぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることによって、人はその力と栄光にあやかろうとする。人は自己自身を屈服させ、それのもつすべての力やほこりを投げ捨て、個人としての統一性を失い、自由をうちすてる。しかしかれは、かれが没入して力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りとを獲得する。またかれは疑惑という責苦に抵抗する安全性も獲得する。マゾヒズム的人間は、外部的権威だろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。・・・かれの生活の意味やかれの自我の同一性は、自身が屈服したより大きな全体によって決定されるのである。(フロム「自由からの逃走」)

「愛国の作法」は、いたるところでエーリッヒ・フロムが引用されており、大ベストセラー「愛について」からの引用も多い。愛国を、ジャック・デリダの脱構築を用いて展開していることが分かる。つまり、愛国を一度歴史的な意味で精査し、そして解体し、再構築するという方法。

姜氏の著作は「ナショナリズムの克服」から読み始めたため、始めかなり違和感があった。外から見ている感じがしていた。対談者も在豪だし。
スパスパと切ってみせるやり方はシャープで問題を可視化しているのだけれど、どこか違和感を感じていた。この違和感が、自分の中にある「共同体」からきていることもわかる。どんどん姜氏を対象化していく自分がいた。そして、自分のことも考えていた。

姜氏のホームページを見た。「愛国の作法」を2年連載したらしいのだが、そこで政治を学問として扱う限界を感じていると語っていた。そして文学と政治をやってみたいと。トルストイに興味をもっているという。この話を読んで、わだかまりが幾分かは溶けた。

トルストイであることも分かる。人とのつながりを前提とする公、そして国家を越える公は以前から語られているが、文学を通してそのつながりに踏み込み可能性を探ろうとしているのだろう。そして、情(こころ)で反応している自分は、きわめて日本人的。

今、個人に対しては性善説を、国家に対しては性悪説を。なんだかこれがぴったりきている。国が国相手に性善説で対応しようものなら、大変だ。
国民一人一人が国家を性善説で捉えると、間違う。それは今の民主党に対しても同じ。だから国には監視が必要だということも肝に銘じたほうがいいだろう。
市民による国家監視(シビリアンコントロール)は、日本ではまだ黎明期。

そもそも組織は、ある一定の人数を越えると共同幻想が必要になり(学校は先生が面倒みれる最大数が40人位とされ、企業はトップと平社員の関係が70人位で最大。相互扶助を前提として社会的絆を持ちうる最大数としてダンバー数があるが、それは150人としている。)、その最大値を超えたときに個人と組織の関係はガラリと変わる。ここをどこまでいっても性善説で捉えようとするときに、不幸が起こる。

政治から離れて文化で捉えると、命から生まれ命を育む文化は、どこの国の文化とも戦争を起こさない。日本にはあらゆる国の文化が流入して何でもありの国だ。それだけ懐が深く受け入れることができる平和の深層がある。

小林秀雄と岡潔の対談「人間の建設」から

火曜日, 4月 13th, 2010

小林秀雄と岡潔の「人間の建設」という対談集を読む。
いくつも引用したいところはあるのだけれど、
伝えたいことからして以下に絞ろうと思う。
専門分野はさらに複雑化していて、現在の数学は新しい論文を読むのに大学院のマスターコースを修了したくらいでないと分からないということで、
非常に時間がかかるものとなっている。その結果元となる数学の創造性や面白さや、そして岡さんの言う情操を育むのが、非常に難しい状況となっていることを知る。よく分かる。
P・ドラッカーの言葉で、人間は、複雑化していく社会の情報のコントロールをいつかできなくなるだろう、というメッセージは、現在の同じ状況を示している。(だからこそ、ドラッカーは、マネージメントを説くのだが)
複雑化は、この場合、専門化、多様化と同義である。つまるところ、エントロピーの増大をベースに、事である知識や情報も肥大化していっている。
では、人間はこのエントロピーの増大をどのように生きるべきかという最大の命題に直面している。
岡さんの言う「情操」は、このエントロピーの増大とは逆のベクトルを持つ精神の運動ともいえる。人間こそが、このネゲントロピー(エントロピーの増大化に対して逆の指向性を持つ)を生きることができる。
先日書いた多様性と一途の同時存在は、物質と精神の働きと言い換えることもできる。このバランスが、すこぶる悪いのが現代とも言える。

小林さんも岡さんも、いい顔をしている。小林さんの顔は、よく見る写真に比べて、ややふっくらしているが、ふたりとも存在の香りがある。
この存在の香りは出そうとして出せるものではない。生き方から生まれるものだから。

日本について

月曜日, 2月 22nd, 2010

昨秋から日本を捉え直ししたいという欲求が強い。
岡潔さんの「春宵十話」「日本人のこころ」「日本民族」を読む。
言わずとしれた日本を代表する大数学者。
何よりも前に文化と自然を置く。
政治よりも経済よりも前に。考えてみたら当たり前のこと。
人間がいて始めて社会が成り立つ訳だから、この人間の命を育む自然・文化を抜きにして、語ることはできないという強い使命感がある。
そして、命を育む自然と日本人の関係を、「情緒」「情操」から掘り起こし、万葉、芭蕉を通じて日本人の情操に流れる源流を捉えていく。
1960年代に書かれた本だが、人の顔に獣性が宿ってしまっているという危機感を持っていらっしゃる。
獣に象徴される自己中心性は、お金、自分だけ良ければいい、などなど、ローマ末期を思わせる資本主義の退廃過程として現代を見ている。バベルの塔はいずれ崩壊する。
数学は芸術。この言葉も胸を打つ。

岡潔さんが数学で研究成果を上げられた分野は、当時の3つあった領域から新たな成果を出された訳だが、外国からは、OKAKIYOSHI がチーム名なのではないかと思われたこと、そして、実は、たった一人の人間が行った研究成果だったことが驚愕された。

自身の体、心で何が起こって創造の発露が生まれたかを書かれているが、自然が関係している。
「創造は生命の燃焼である」とは岡潔さんの言葉。
創造活動が、体と感性を通して行われており、熟成の期間を通った後、はっと気がつくというプロセスでもある。

小さなところでは、個人的に、仕事の行き詰まりや、実務的なアイデアが必要なとき、公園を散歩してくることにしており、大体、戻ってくると整理され解決の糸口をつかんでいるというやり方を持っている。どうしても緑豊かな大きな公園が必要になっている。

岡さんの著作を読んでいるとき、「感動する!数学」(桜井進著)を知った。

特に、黄金率について少し紹介すると、オウム貝やひまわりの種の配列、そしてマツボックリやツクシの螺旋が大きくなっていく比率と銀河系の渦巻きが大きくなっていく比率は等しい。また、オウム貝の渦巻きを500万倍に拡大するとハリケーンの渦巻き雲になる。
この比率は、また人間のDNAにも見られ、1単位の長さと幅の比率も同じ。自然界のいたるところで見いだされる。頭のつむじも同じなのだろう。
この黄金律は、数学のフィボナッチ数と呼ばれる。
フィボナッチ数とは、隣り合った数を横に数で順次足していくとできあがる数列で、0,1,1,2,3,5,8,13・・・と続く。
次に、右の数字から左の数字で割ってみると、数が大きくなればなるほど、1.618に限りなく近づいていく。5÷3=1.666、8÷5=1.600、13÷8=1.625と続けると、限りなく1.618に近づく。
自然界のみならず、金融相場の世界でも見られ、有名なエリオット波動(3波と2波で形成される相場の値動き)もフィボナッチ数列に対応していることが多い。
日本の縄文土器の文様は、曲線が多いことで知られるが、渦巻きは多く存在している。改めて人間の自己中心的な世界がいかにちっぽけな世界でしかないかを知ることになる。

縄文をルーツとする考え方を今までもっていたのだけれど、日本は多様性に富んだ国で、受け入れて多様性を広げると同時にもう一つ逆のベクトルである一途さを同時に持つ世界でも稀に見る国という考え方を取り始めている。
一途は宗教性に関係する。
この国は本当に不思議だ。人間に「ゆらぎ」がある。ゆらぎは1/f ゆらぎとして広く知られているが、例えば、アニメのキャラでもそう。ヒーローがずっこけたり、カッコ良かったり、泣いたり、笑ったり、同じ存在の中でさまざまな多面性が飛び出てくるし(多次元を同時存在していると言ってもいい)そして演出が面白い。このあたりがジャパニメーションの強み。例えば、バットマンは、善悪を前提にしているがために、キャラの行動が決まっているし、一神教では限界があるんだろう、とも思う。

ちなみに、最近大ヒットを飛ばしている洋画アバター(ジェームズ・キャメロン監督)を見たが、もののけ姫のアイデアが入っている。獣を殺して自分たちの食とするときに、神道の循環的な世界観が取り入れられているし、森の精も、もののけ姫で登場する。そういう循環的世界をハリウッドが自分たちの限界を破るために取り入れ始めたのだなあというのが、見終わった感想だった。

アメリカは歴史が無い代わりに、映画で歴史を作ろうとする国。
どんな映画がヒットするかを観ていると面白い。
リバタリアニズムのクリント・イーストウッド作品などがもっと観られるようになると、変わる可能性をもっている。

しかし、今のアメリカの中には、戦争を問題解決の手段としている勢力があるのも確か。

アメリカがヤバくなればなるほど、戦争の可能性が高まる。中東が火を噴く可能性がある。
今年秋以降が問題。

経済的に言えば、今回のデリバティブ崩壊にともなって、CDS(クレジット・デフォルト・オブ・スワップ)は、リーマンの際に相殺されたが(つまり、両サイドの持ち主双方が、オープンにして相殺したことで損失は8%程度に抑えられた)、CDOはいたるといころに入り込んでいるため、この相殺による解決が事実上取れない。
だからアメリカが本当にコケたとき、戦争か、統制経済か、そして統制経済を世界に波及させるか、選択肢は限られている。

しかしながら、予想に反したことが起こるのも歴史。

世界的な危機回避は、日本がアメリカとの関係を含め、どんなモデルを作れるかに依っていると言っても過言ではないだろう。

心して生きよう。