被災地と死生観

知り合いと今春行った被災地のプロジェクトを振り返った。
仙台の小中学校の生徒が応援旗にメッセージを書いてもらい、それぞれの旗で文字を構成するというプロジェクトだった。
旗には、希望、元気、底力などメッセージが書かれていたのだが、学校単位で制作されているため、限界があったように思う、という話をした。

本当は、優しかったおばあちゃんが津波にさらわれてしまい悲しい、とか、いつも励ましてくれていたおじいちゃんが家の下敷きになって死んでしまい、思い出しただけで胸が締め付けられるという、魂の深いところで泣いている子供たちの心をがあるのではないだろうか。身内に亡くなった方もいれば、家の被災だけで済んだ方もいれば、ごちゃまぜの状況の中で、いっしょくたに未来に向かうんだという持っていき方は手落ちだろう、そう思った。

人は魂の問題が片付いていないと底力も出てこないし、深い悲しみにとらわれていたら受容されてないと癒やされない。
魂の問題をさておいて復興経済で前向きに進むには、この問題はいつまでたっても残り続けるだろう。

既存の経済優先の頭は、パイの食い合いの中で行われるゼロサムゲームで効率化と無理強いをしているだけなので、ポテンシャルを持った人間の存在を捉えることはできない。言葉を発するよりも前に、仕事をするよりも前に、その人がその人である自我意識の前に、深く広く人を受け入れ自然と交流している命があり、存在はその言葉にできない命と同義である。

東北には縄文後期から流れているゆるやかで優しく大きな水脈がある。
縄文時代の平均年齢は30歳位である。子供も生まれてすぐに亡くなることが多々ある。日常に死が当たり前のように出来事としてある。悲しい、だから墓を住居の近くに作り、亡くなった身内と一緒に暮らすのだ。現代とは逆の死生観である。

死を対象化して忌み嫌い、恐怖の対象として恐れるようになってしまった現代にあって、死ではなく死者とともに生きていた時代があった。山を見て、畏敬し感受できる魂は人を傷つけない。今を生きる悲しみも喜びもそういう豊かな自然と共同体の中で培われてきたはずだった。

病人に、元気になれよ、と言っても、それは酷である。元気になろうにも体が動かないのだから。
これと魂のレベルで同じことが起こっているだろう。

現代人は沈黙の裡に聞く能力と感受性を取り戻す必要がある。